繰り返される衰退論、「アメリカの世紀」はこれからも続くのか
■小濵: 確かに「アメリカ衰退論」は、繰り返されてきたとは思いますが、今回ばかりは今までと少し違うのではないかと思うことがあります。アメリカ社会の内なる問題ということですけど、学問の領域でもアメリカ政治史や外交史のような形で国家を語ること自体が批判的に捉えられ、国家の枠にとどまらない人やモノの移動に光を当てることが重視されるという風潮があります。
清水さゆり氏が「『アメリカの世紀』と人種問題の蹉跌」でも指摘されていましたが、アメリカ南部では南北戦争に関わる記念碑を撤去して「政治的に正しくない」歴史を公共の場から消そうとする動きもあります。現在では、そもそもアメリカという国を語るということ自体が難しいことになってしまいました。これは今まであまり経験してこなかったことなのではないかと思っていますが、どうでしょうか。
■待鳥: 例えば多文化主義がアメリカの統合原理や普遍のロジックを壊すという議論は新しいものではなく、80年代からすでにあります。しかし、自分たちがやることが普遍だというロジックで語り続ける限り、多文化主義でもアメリカ史でも何でも、全て普遍的に広がらなくてはなりません。すると「アメリカという枠」を超えてしまうわけです。小濵先生が感じられていることもそういう現象であり、それが今起こっているのではないかと思います。
■田所: やはりアメリカは巨大な国で、あのサイズで1つの国でやってること自体がそもそも奇跡です。ですから広大な場所で極めて多様なものを一緒にやっていくということに建国以来ずっと直面してきたわけです。州ごとには全然違うけれど、合衆国憲法だけは一緒にやってお互い協働していこうじゃないか、と。しかし、それが破綻したのが南北戦争です。
日本にいると忘れがちですけど、南北戦争はおそらくアメリカにとっては最も消耗率の高い戦いでした。60万人を越える戦死者は当時のアメリカの人口からすると極度に激しい戦争です。これは一種、宗教戦争の様相もあり、第二次世界大戦のように英雄的な物語ではありません。しかし、アメリカでは、この戦争が大きな悲劇として記憶されたと同時に、それを乗り越えてもう一度アメリカを再建したのだという誇りの物語でもあるのです。
平井康大氏が「島宇宙のアメリカ」で言及されたように、アメリカはメイフラワー号で来たピューリタンの人たちだけではなく、ものすごく様々な宗派の人たちによって成立しています。これらの多様な人たちが何とか共存していく空間をつくっているのがアメリカであり、そこで私たちは一緒にやっていくのだというダイナミズムがアメリカ史なのではないかと思っています。