百田尚樹と「つくる会」、モンスターを生み出したメディアの責任 石戸諭氏に聞く
――百田さんと第二部に登場する3氏の違いについて、石戸さんは後者には「情念」があると書いている。「著作物に個人の思考の軌跡、情念が刻み込まれてしまう」、「自らの思想を簡単に『着脱』できない」という意味で、百田さんに対して、彼らは「古い」書き手であると。
作品に情念が刻み込まれてしまうのが、第二部の3氏だ。小林さんの『新・ゴーマニズム宣言』を読めば分かるが、彼はギャグ漫画家としてデビューしているので、わざとギャグをかましたり、わざと不謹慎なこと言ったり、ちょっと過激な振舞いをしながら読ませていくが、通して読んだときに小林よしのりが全く考えていないことをあの中に書くというのは不可能だということが分かる。
わざと露悪的にふるまうことがあったとしても、この人が何をどう考えているのかは、否が応でも作品に刻み込まれている。小林さんがなぜそれを書かなければいけなかったのか、なぜその対象に接近していったのかは、読めば非常によく分かる。
一方で百田さんは、自分はエンタメ小説家だと繰り返し語っているが、本当にその通りだと思う。「新しい作家」である百田さんの小説を読めば読むほど、百田尚樹という人間は分からなくなってくる。政治的なイデオロギーと作品は切れており、小説を読めば百田尚樹が分かる、とは僕はとても思えない。
昨年夏に発売された『夏の騎士』(新潮社)という(彼曰く)「最後の小説」には百田さんの特徴が詰まっていて、登場人物たちがものすごくリベラルな価値観を共有している。反差別的だし、女性蔑視がはびこる世界に反抗する人物も出てくるし、読もうと思えば非常にリベラルな小説に読める。
ところが、本人は右派的なイデオロギーが強い人物だと僕たちは知っている。じゃあ何のためにこの作品を書いたのかと言えば、物語としてそちらのほうが面白いから、という以上の理由は見出せない。そこは、小林さんたちとは全く違う。
――本書の冒頭にある、百田尚樹とその読者とは「不可視な」存在である、という問いにも帰結するのかもしれない。小説を読んでも百田尚樹が見えてこない、それほどに現実とフィクションを混ぜるのが上手いということ?
いや、単純に別物だと思っているのでは。小説とはみんなを楽しませるものだ、というのが彼の前提にあるので、自分の主義主張とは完全に切れているものが書ける。
百田さんの小説を批評する試みはこれまでにもあるが、多くの場合、作品の中に「百田尚樹」の考えを見出そうとする。作品には著者の人間性が出ているという前提で読もうとしているが、そのアプローチではなく、主義主張と切れているのだとシンプルに考え直したほうがいいと思っている。
それよりも重要なのは、彼の行動原理というか、思想原理をきちんと読み解くことだ。小説で言えば、百田さんはイデオロギーを着脱できる。逆に作品を書く上で、自分のマーケットというものをあそこまで意識し感動させることに徹することができるというのは、ある種の職人気質だと思った。