肉体の苦痛こそ究極のアートだ
テーマは政治から命まで
こうしたアーティストは苦痛と危険と快感が背中合わせになった世界に身を置き、観客から不快や嫌悪、欲望や共感、驚きといった反応を引き出そうとする。心身の極限を探る点は共通だが、テーマはそれぞれ異なる。
「多くのアーティストは自己の内面の奥深くに潜む何かに突き動かされてこうした表現をする」と、カーは説明する。
エイシーのパフォーマンスは宗教的な儀式の意味合いを持ち、フラナガンの行為は生に対する問い掛けだが、パブレンスキーが赤の広場で行ったのは政治的な抗議だ。陰嚢を地面に打ち付ける行為がアートだろうかという問いに、カーはあっさり「彼がそれをアートと呼べば、それはアートだ」と答える。
だが、その行為でロシアの現状が変わるだろうか。「これだけ衝撃的なものを見れば、人々はロシアで何が起きているか考えるだろう。その意味では、彼の狙いは既に達成されている」と、チェンは言う。
ロシアのアーティスト、オレグ・クリークは「(パブレンスキーを)何と呼ぼうと構わないが、頭がおかしいとは言わせない」と語っている。「彼をおかしいと言う人のほうがおかしい。彼は今のロシアで唯一まともな神経の持ち主と言ってもいい」
それにしても、そのパフォーマンスがあまりに過激なことはカーも認める。「あそこまでやってしまうと、次に何をするかちょっと見当がつかない」
血みどろの拷問じみたパフォーマンスはなぜか絶えることなく続いてきた。その豊穣な流れをくむパブレンスキーはさらなる苦痛の極致へと向かうだろう。