誤解されてきた「R&Bの女王」 ティナ・ターナーの実像とは
New Tina Turner Doc Is a Must-Watch
ターナーの人生は文字どおり波瀾万丈だ。スターへの階段を駆け上る過程はまるでおとぎ話のようだが、その裏には深い闇が隠されている。
本名はアンナ・メイ・ブロック。1939年に生まれ、テネシー州ナットブッシュで育つ。貧しい子供時代は親戚の家を転々としていた。
16歳でセントルイスに移住し、57年、アイク・ターナー&ヒズ・キングス・オブ・リズムのリーダーで8歳年上のアイジア・ラスター・ターナー(アイク)と出会う。アイクは51年、ロックンロールの原型の1つとも言われる「ロケット88」を作曲。R&Bチャートの1位を獲得していた。
全部で5つのパートからなる『ティナ』は、2人の関係の始まりを巧みに描いている。パート1の「アイク&ティナ」では、初期の音楽的成功と急速に悪化していく虐待の様子が淡々と語られる。
アイクは本人に無断で彼女の名前を「ティナ・ターナー」に変更する。60年には「ア・フール・イン・ラブ」がR&Bチャート2位を記録。ポップチャートもにぎわせるヒットになったことで、彼女はアイク&ティナ・ターナーの片割れとして存在を知られるようになった。
『ティナ』は、66年に発表された「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」の音楽的成功と商業的失敗、71年にポップチャート4位に入った「プラウド・メアリー」の大成功にも触れている。これ以降、アイクはコカインに溺れ、ますます暴力的になっていく。
『ティナ』の最も力強い「語り手」は、ターナーがソロ時代初期に行ったインタビューの生テープだ。アイクとの結婚生活を初めて語った81年のピープル誌のインタビューと、86年に出版された最初の自伝『アイ、ティナ』(邦訳『ティナ・ターナー、愛は傷だらけ』講談社刊)のために共著者のカート・ローダーと交わした会話は特に印象的だ。
ピープル誌のインタビューでは、彼女は何十年にもわたり受けてきた虐待を記者に詳細に語り、記者はそれをどう受け止めていいかさえ分からないようだった。人気司会者のオプラ・ウィンフリーが指摘しているように、このインタビューは女性セレブが家庭内暴力について率直に語った最初の例の1つだった。
『ティナ』では、この2つのインタビューが80年代の驚異的なカムバックの前後を挟み込むように挿入されている。人種、年齢、女性への差別が色濃い当時の音楽業界では、彼女は年齢的にも肌の色からもMTV時代のスターになるのは無理だと思われていた。