「物語はイズムを超える」翻訳家・くぼたのぞみと読み解くアフリカ文学の旗手・アディーチェ
くぼた:アメリカに移民した者どうしが「滞在年数」を競い合っています。イフェメルの内部には違和感がふくらんでいたんですね。「自分ではない何か」に必死でなろうとする人たち、自分もまたそうだったと気づきます。
その後、9.11が起きて、憧れのアメリカへ行けなかったオビンゼが、イギリスに渡って不法労働で捕まり、強制送還される物語があって、ナイジェリアに帰国したイフェメルが大金持ちになったオビンゼと再会する終章へ進みます。
ナイジェリアとアメリカとの関係が物語の中心ですが、イギリスの移民社会のリアルも描かれている。ここでイギリスが入ることで、アフリカ大陸、アメリカ、ヨーロッパが結ばれて「環大西洋」になる。ここは重要なポイントなんです。
「環大西洋」とはかつての三角貿易、奴隷貿易の航路です。「移民」が世界中で問題になっていますが、アフリカからの「移民」に対して、私たちはどんなイメージを持っているでしょうか? そのイメージは、誰の目を通したものでしょうか?
現代の移民たちを、アディーチェは自分たちの物語として内側から描きます。これまで大きな物語では外側から描かれることが多かった人たちの物語のリアルをつむぎ、ここまですっと読者に理解させてしまう作家は、いなかったのではないでしょうか。
「与える側」が見落としていること
アディーチェの思いが圧縮したかたちで出ているのが、冒頭で紹介した「なにかが首のまわりに」です。実は、日本ではこの作品はまず2007年に「アメリカにいる、きみ」(You in America)という題名で訳されたのですが、今回あらたに文庫化されたものでは、結末が書き換えられています。
「きみ」が、母国へ帰るために白人の恋人に別れを告げる場面です。
きみが泣いているあいだ、彼はきみを抱いてくれた。髪を撫で、きみのチケットを買うよ、いっしょに行って家族に会うよ、と彼はいった。きみは、いいの、ひとりで帰らなければ、といった。もどってくるんだろ、ときくので、きみは自分のグリーンカードが一年以内にもどってこなければ失効することを彼に思い出させた。いってる意味はわかってるんだろ? もどってくるよな? くるよな?
きみは顔をそむけてなにもわなかった。彼がきみを車で空港まで送ってくれたとき、きみは彼を長く、長く、しっかりと抱きしめて、それから手を放した。
(「なにかが首のまわりに」から抜粋)
くぼた:文庫化の前は、見送りに来た彼を、彼女は強く抱きしめて「ありがとう」と言って別れますが、新バージョンでは最後の「ありがとう」が削られています。なぜだと思いますか?
その白人の恋人は、「きみ」と付き合っている間、何度もプレゼントを贈ります。でも、彼女はそのプレゼントがだんだんうれしくなくなっていきます。
きみは彼からのプレゼントに惑わされた。振ると内部でピンクの衣装を着たスリムな人形がスピンする、拳大のガラス球。触れるとその表面が触れたものの色に変わる、キラキラした石。メキシコで手描きされた高価なスカーフ。ついにきみは彼にむかって、皮肉っぽく長く引き延ばした声で、これまでのきみの人生では、プレゼントはいつだってなにかの役に立つものだった、といってしまった。たとえば大きな石、それなら穀物を挽ける。彼は大きな強い声で長いこと笑ったけど、きみは笑わなかった。
(「なにかが首のまわりに」から抜粋)
くぼた:英語のGift(贈り物)はドイツ語では「毒」という意味なんですね。オランダ語にもgiftig (有毒な)という語があります。
誰かが誰かに一方的に贈り物をするとき、贈る者と贈られる者の間に、ある力関係が生まれていきます。贈る方が上。もらう方は下。親子なら、いずれ関係は変わるけれど、贈る側と贈られる側が入れ替わることがなかったら? それも個人の力量や努力で超えられない理由によって。だとしたらその関係は「対等」ですか?
何かを贈られることによって、受け取る側に積もり積もっていくマイナスの心情があります。弱者がGiftによって受ける傷、屈辱、それをアディーチェは描いています。政治や経済の状況が個人の内部にたてるさざ波を見つめながら、ハードな歴史的事実と個人のソフトで繊細な感覚を巧みに喚起する作品をアディーチェは書いてきました。