三菱財閥創始者・岩崎彌太郎が清澄庭園をこだわって造り上げた理由
彌太郎は、社員達の憩いと交流の場として、そして賓客の接待の場所として、清澄庭園を造り始めます。企業家が美術品収集などに財を投じる傾向の中、社員のために庭を造り活用するというのは、極めて新しい発想でありました。そしてこのことが、次の時代の企業家である松下幸之助、稲盛和夫に受け継がれ、日本の経営者の庭造りの流れを組むものになったと思います。
また、同パンフレットには、岩崎彌太郎が夢の庭を実現したと記されています。
――「わが心には渓山丘壑を愛す。事業上憂悶を感ずる時は立派な庭園を見に行く。(中略)他に特別の趣味もないが、これが余の唯一の趣味である『岩崎彌太郎伝(下)』より」――
彌太郎は、無類の庭園好きであったのです。明治11年となる1878年、ここ清澄に約3万坪(10ヘクタール)の敷地を買い取りました。実は彌太郎は、同時期に三つの大名屋敷・庭園を購入し、独自の庭園に造り上げています。「旧岩崎邸庭園」(東京都台東区)、「六義園」(東京都文京区)、そして「清澄庭園」です。清澄庭園には、三菱汽船会社の蒸気船を使って全国の名石・奇石を収集し、隅田川の水路より庭園に運び込んできたのです。
清澄庭園の石コレクション
庭園図を見ると、庭の中心に大きな池があり、中の島、鶴島、松島が浮かび、涼亭(1909年築)という数寄屋造りの建物やあずまやなど、庭園の絶景を見られる場所が点在しています。庭園内でもっとも高い築山は、園内のどこからも見えて、これは富士山を表しています。池の周りを歩きながら、そして当時は池に舟を浮かべて、季節に応じて多種多様に変化する美しい景色を観賞できる庭です。
巨石や奇石などを注意深く鑑賞していると、「どうして、こんな石をたくさん持って来られたのだろうか」「水路が確保されていたからだろう」「重い石を運ぶのには、それなりの船(汽船)でなくてはならない」など自問自答しているうちに、岩崎彌太郎―三菱財閥―海運業という構図が見えてきました。彌太郎は、これほどの石をこの庭に持って来られたのは、海運業王の自分だからこそなのだと、自負したかったのではないでしょうか。自分の力をアピールしたいという権力者の気持ちが、庭園造りに現れているのです。
庭石にも色々あります。まずは、景石(けいせき)と言って、自然石の形態のいいものを飾りに配置させました。特に、伊豆磯石(いずいそいし)(安山岩)という変化のある立石は、中国の庭園に見られる太湖石(たいこせき)のような風貌があります。また、波の浸食によって表面に縞模様などが表れる、海岸から採集された紀州青石(結晶片岩の中の緑泥の石片岩)も使われています。清澄庭園の正面口から入って、池のほとりが池の正面と思われますが、景石は、池の西側に沿って重点的に置かれていて、磯の荒々しさを表現しています。多くの石は、安山岩、花崗岩、結晶片岩という黒や灰色の石ですが、中には、佐渡赤玉石など、赤色のチャート(岩石)もアクセントに据えられています。