三菱財閥創始者・岩崎彌太郎が清澄庭園をこだわって造り上げた理由
庭の正面から右に歩き始めるとすぐに、水の上を歩く「磯渡り」ために置かれる「飛石(とびいし)」があります。普通「沢渡り」と言いますが、清澄庭園の場合、池の水際に大ぶりの石が敷き詰められ、荒磯を思わせる配置なので「磯渡り」と称されています。磯渡りの中ほどには船着場があり、長方形の仙台石(粘板岩)が二枚、船着石として設置されています。建物前の靴を脱ぐ場所に踏み台のように置かれる沓脱石(くつぬぎいし)には、伊豆川奈石(安山岩)などが使われ、踏み台として乗る前に、思わず立ち止まりそうな美しい色形をしています。その他、山燈籠、層塔(そうとう)、水鉢、石碑、石仏群など石を用いた景物(けいぶつ)がいろいろありますが、この庭園では厳選されたものを効果的に配置していて、散策をより特別なものにしています。
清澄庭園と三菱が辿った運命
二代目として彌太郎の後を継いだのは、17歳下の弟・彌之助でありました。彼は、進歩的知識人であり、社名を「三菱社」として鉱業や造船業を中心に事業の多角化をはかり、三菱財閥をさらに大きく発展させます。それとともに、国内外に誇れる名庭をと意図して、財を投じて清澄庭園をより完成度の高い庭にしていきます。
三代目は、岩崎彌太郎の息子・岩崎久彌です。福沢諭吉の慶應義塾に入り、その後、父が開設した三菱商業学校に転じ、英語、簿記、法律、経済を学びます。アメリカのペンシルバニア大学に5年間留学後、三菱社の副社長に就任します。
久彌の時代に関東大震災が起こり庭園も被災しますが、庭園にたくさんの被災者を迎え入れ、人々を救いました。関東大震災を契機として、清澄庭園は岩崎家から東京都に寄付されます。第二次世界大戦の東京大空襲で建物は焼失しましたが、関東大震災のときと同様、近隣住民の避難場所として多くの人命を救いました。
清澄庭園は、災害や戦争のときの避難場所として新たな役割を担うことになりました。美しい庭園が燃えたり破壊されたりするのは悲しいことですが、人々を救う場所に変わり得ることは、庭の役割として認識しておきたいことだと私は思います。
※第1回:利他の心に立つ稲盛和夫が活用する京都の日本庭園「和輪庵」
※第2回:京都を愛したデヴィッド・ボウイが涙した正伝寺の日本庭園
『一流と日本庭園』
生島あゆみ 著
CCCメディアハウス
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