幼稚園は「能力」を育てる場所なのか 2018年度改訂「幼稚園教育要領」への疑問
幼児教育を小学生以降の教育と連結させ、義務教育の前段階から、然るべき人格形成を目指したい、との意向が見える。「幼稚園教育要領の構造化のイメージ(仮案・調整中)」とのグラフには、幼稚園からの教育により、「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質の育成を期す」と書かれている。なんだか、重い。
「資料1 教育課程部会幼児教育部会におけるこれまでの主な意見(未定稿)」を、じっくりと通読すると、様々な意見がぶつかっていて興味深い。「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿の明確化」に対して、「あくまでも例ということであるが、世の中に出たとしても、これだけやればよいということになりはしないか、危惧される」との意見が出れば、国旗については「生命尊重、公共心等の項目で、国旗が取り上げられており、自分の国の国旗に誇りを持つことは非常に大事だと思うが、国旗を例に出すのであれば、例えば、様々な国の国旗についても触れた方が誤解を生まないのではないか」などと、真っ当な意見が出ている。
首をかしげる意見も散見される。「人との関わりの項目で自信や希望、それから夢を持って自己肯定感が育まれて、そして自己有用感が芽生えていくというような関わりがセットになっていて、非常によい」や、「粘り強さであるとか、自己コントロールであるとか、集中するということであるとか、そういった非認知能力を幼児期に豊かにしておくと小学校以降で大きく花開くということが盛り込まれると、更に良いものになるのではないか」などなど。それにしても「小学校以降で大きく花開く」とは、謎めいた褒め言葉だ。前出の記事によれば、「幼稚園ごとに身につくことがまちまちで、小学校での一斉授業がうまくいかないケースがあるとの指摘があった」からこそ、「能力」を盛り込む流れになったとのことだが、そもそも「小学校以降で大きく花開く」ために幼稚園があるべきではないだろう。
朝日新聞の連載「折々のことば」(6月2日)で鷲田清一が、福田恆存の「教育はもつとも実験室化してはならぬものでありながら、もつとも実験室化しやすいもの」との発言を引いた上で、「子どもがそこにいれば勝手に育つ、そのような場所をどう用意しておくかが、大人の責務ではないのか」と書いている。「かくあるべし」が幼稚園児に投じられるのって、福田のいう「実験室化」とも思えてしまう。幼稚園教育要領に盛り込まれる「能力」がどこまで個々人に問われていくのかは未知数だが、そもそも「自立心」を幼稚園児に求めていく事自体が自立心を妨げる気がする。今月にも方向性が決まるという「幼稚園教育要領の構造化」に注視したい。
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