戦後ドイツ、男性同性愛を禁じる刑法175条、「過去の克服」の重さと複雑さを描く『大いなる自由』
1949年に戦後初の連邦共和国首相に選出されたキリスト教民主同盟のアデナウアーは、1953年に極端なカトリック伝統主義者を家族相に任命し、性に関わる政策に保守的なキリスト教の価値観が反映されるようになる。その後、50年代中・後期から60年代初めにかけて性的保守主義が支配的になっていくが、その変化は実はナチズムの記憶と深く結びついている。
西ドイツが、冷戦体制下で西側に受け入れてもらうために、ユダヤ人虐殺問題と何らかの折り合いをつける必要に迫られたとき、人々は、道徳的議論の焦点を大量虐殺から性的問題へと移行させる戦略をとった。家族と性に関する保守主義こそ不朽のドイツ的価値であると強調することが、かつてナチズムに熱狂したことを、視界からも、その後の記憶からも隠す手段になったのだ。そして、同性愛嫌悪は、キリスト教の庇護のもとで、新たな正当性を与えられることになる。
しかし、1963年に始まるアウシュヴィッツ裁判によって風向きが変わる。その後、リベラル派と急進派は、性の問題に関してキリスト教保守派とナチスとの間には強い同質性があるという考え方を武器に、有力な保守派の代弁者たちを守勢に立たせ、性についての道徳的規準を書き換えることに成功する。
登場人物の図式が、3つの時代を通して変化していく
本作の3つの時代は、こうした変化に対応している。1945年は「相対的に寛容で曖昧」な時期に、1957年は性的保守主義の真っ只中の時期に、1968年は保守派とリベラル派や急進派の立場が逆転していく時期にあたる。マイゼ監督は、そんな3つの時代の背景をほとんど説明することなく、ハンスと他の囚人との個人的な関係を描くだけで、性以外の社会や政治を想像させる。
見逃せないのは、登場人物の図式が、3つの時代を通して変化していくことだ。ハンスは、1957年には、恋人のオスカーと一緒に投獄される。1968年には、公衆トイレで出会って、ともに捕まったレオと親密になっていく。このハンスとオスカーやレオとの関係を描くだけなら、本作は性から視点が広がることはなかっただろう。
だが本作にはもうひとり、ヴィクトールという同性愛者ではない重要な人物が登場する。1945年にハンスがナチスの強制収容所から刑務所に移送されたとき、ヴィクトールはすでにそこにいて、ふたりは同房になる。そのヴィクトールは殺人罪で服役しているため、ハンスが刑務所に舞い戻ると必ず出会う。しかも再会するだけでなく、彼らの関係は、ハンスとオスカーやレオとの関係を凌駕していく。
では、それはどんな関係なのか。1945年、ヴィクトールは同房になったハンスが175条違反者と知った途端、同性愛嫌悪を露わにして、彼を追い出そうとする。そして、仕方なく受け入れたあとも、「触ったら殺す」と息巻いている。ところが、ハンスの腕に彫られた番号から彼が強制収容所にいたことに気づくと、態度が変わり、腕の番号を新しい入れ墨で覆うことを提案し、それを実行する。
ドイツの戦後と切り離せない「過去の克服」の重さや複雑さ
ヴィクトールはハンスを通して過去と向き合うことになったといえる。ナチスを支持して戦った彼が、いままた同性愛嫌悪に駆り立てられて行動すれば、何も変わっていないことになる。そんな彼がハンスに触れて、入れ墨を入れることは、自分の過去を消そうとすることも意味する。
それを踏まえると、性的保守主義の真っ只中にある1957年のドラマもより印象深くなる。同性愛者には絶望感が重くのしかかり、ハンスは激しい喪失に打ちのめされる。そのときヴィクトールは、他の囚人や看守の目も気にせず、彼を抱きしめる。それは性的保守主義に対抗する態度と見ることもできるだろう。
そんなふうにしてハンスとヴィクトールは、3つの時代を通して、同性愛者同士の関係とは異なる特別な関係を築いている。だからこそ、175条が改正され、ハンスが出所したとき、彼にとって性的自由はもはや重要なものではなくなっている。ハンスとヴィクトールは、過去と向き合い、それを乗りこえようともがいてきた。そんなふたりの関係には、ドイツの戦後と切り離せない「過去の克服」の重さや複雑さを感じとることができる。
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