コラム

新型コロナ対応に必要とされる準戦時的な経済戦略

2020年04月09日(木)17時10分

何をどのように割り当てるべきか

戦時経済においては、希少な資源の多くを戦争遂行や兵器生産に配分しなければならないため、人々の消費に向けられる食料品のような財貨サービスの供給は必然的に減少する。その限られた消費財の売買を、平時と同様に市場での自由な取引に委ねた場合には、多くの低所得者には十分に行き渡らず、経済自体が維持不可能になってしまう。そのような場合、政府はしばしば、市場取引を禁止し、国民一人一人にその希少な財を物理的に割り当てる配給制度を実行する。

経済学の入門教科書に書かれているように、この配給という制度は、市場制度に代わる配分システムとしての「割り当て制度」の代表的な一つである(スティグリッツ&ウォルシュ『スティグリッツ入門経済学 第4版』東洋経済新報社、第2章第3節を参照)。一般的にいえば、配給などの割り当て制度を通じた配分は市場制度を通じたそれよりもほぼ常に非効率であるから、市場が十分に機能する限り、戦時のような特殊な状況以外には用いられるべきではない。しかしながら、市場が十分に機能しない状況では、話は別である。そして、それが生じたのが、今回のマスク不足騒動であった。

日本では現状において、マスク売買で市場は機能していない。というのは、市場が機能しているのなら人々はお金さえ払えばマスクを入手できるはずであるが、そうはなっていないからである。人々は今、開店前から何時間もドラッグストアの前に並ばなければマスクを入手することができない。これは、マスクの配分が、割り当て制度のもう一つの形態である「待ち行列」を通じてのみ実現されていることを意味する。そしてそれは、マスクという希少な財が、お金を払う意志のあるすべての人々にではなく、「行列のための十分な時間を持つ一部の人々」にのみ割り当てられていることを意味する。

もちろん、こうした市場の機能不全は、時間がたてば解消されるであろう。企業は今、マスクを生産さえすれば飛ぶように売れ、いくらでも収益を得ることができずはずである。したがって、この供給不足もやがては解消され、マスクを買うための待ち行列も姿を消すはずである。日本政府がこれまで、マスク不足に対してほとんど何も対策を講じていないように見えたのも、おそらくはこのような想定に基づいて「行列ができるような状況はごく一時的なものにすぎない」と考えたからであろう。

その判断はしかし、結果からすれば、マスクを求める人々の強い不安を過小評価し、企業の短期的な供給余力を過大評価した、単なる楽観論にすぎなかった。そのことに気付いた日本政府は、遅まきながら、一世帯あたり2枚の布製マスクを戦時さながらに配給することにした。しかし、今になってそれを行うくらいなら、台湾などが早くから行っていたように、政府がマスクの販売を管理して病院や個人に必要な分だけ割り当てるといった、より合理的な割り当て制度を実装できたはずである。

今後においてマスク以上に大きな問題となりそうなのが、医療資源の枯渇である。周知のように、日本の新型コロナ対策は、究極的には死者数をできる限り抑えることを目的としている。その意味では、感染拡大の防止は、目的そのものというよりは、その目的のための手段にすぎない。要するに、感染防止が必要なのは、感染拡大は希少な医療資源の枯渇に直結し、医療崩壊に直結し、結果として死者数の増大に直結するからなのである。感染爆発が起きた国々の医療現場に生じた悲惨な状況は、そのことを端的に示している。

この問題が深刻なのは、設備と人力と原材料さえあれば簡単に増産できるマスクとは異なり、医療資源とりわけ医療従事者の供給には厳しい制約が存在しており、かつその供給はきわめて非弾力的だからである。医療というサービスは、人間の命を扱うというその特質上、あらゆる領域に強固な公的規制が張り巡らされている。したがって、そのサービスの提供者を簡単に増やすことができない。とりわけ、重症患者の集中治療のための医療資源は、極度に制約が厳しい。その資源を全体としていかに枯渇させないように運用するかは、政府や各自治体にとっての喫緊の課題である。

道徳的誘導よりも経済的誘導を

戦時中の日本では、戦争という目的のために、人々の活動があらゆる面で制限され、それを守らなかった個人には厳しい罰則が課せられた。さらに、当時の日本の指導者たちは、人々の行動様式を戦争という目的に適合的なものとするために、一般国民に対してさまざまな道徳的働きかけを行った。「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵」といった当時の有名なスローガンは、その端的な現れである。

上述のように、日本では、緊急事態が宣言されたとはいっても、罰則を伴う法的強制力を用いて人々の行動に制約を加えることはできない。それはせいぜい、戦時中の緊縮スローガンと同様の道徳的な誘導でしかない。とはいえ、その誘導により実効性を持たせることができないわけではない。その手段の重要な一つが、2020年3月25日付本コラムで指摘した、経済的インセンティブの付与である。

そこで指摘したように、感染拡大阻止のために真っ先に割り当てられるべき政策手段の一つは、休業に対する十分な所得補償である。感染拡大抑制のためには、何よりも、人々に外出を控えてもらうことが必要である。そのためには、人々に仕事を休んで家に引きこもってもらうことが必要である。そしてそのためには、個人や企業の休職や休業に十分な補償を与えて、「休んでもらっても損はさせないようにする」ことが必要なのである。

それに対して、もう一つの政策手段である定額給付は、基本的には、今回の危機で所得を失った生活困窮者の救済のための手段と位置付けられる。緊急事態宣言の対象となった首都圏等では、飲食業等の営業停止や縮小が今後も長引くことが確実視されている。それは、そこで働いていた多くの非正規労働者が事実上の失業状態になることを意味する。定額給付は、そのような人々を「むやみに働きに出させずに家に引き留めさせる」ためにも必要なのである。

この経済的インセンティブを通じた誘導という手法は、休業補償以外の課題にも応用できる。一部報道によれば、政府は今回の緊急事態宣言に伴い、首都圏などの鉄道各社への減便要請を検討しているという。しかしこれは、現状でさえ顕著な満員電車というクラスター・リスクをさらに拡大させるものでしかない。それよりは、便数は維持した上で、混雑時間帯の運賃を高めに設定するピークロード・プライシングを導入した方がよい。それは、フレックス出勤等を通じた満員電車の回避に経済的インセンティブを与えることで、満員電車という大きなクラスター・リスクの縮小に寄与するはずである。

戦時とは異なり存在しない全般的供給制約

日本国民は戦時中、食料を含む生活物資の不足により、まさに塗炭の苦しみを味わった。上述のように、それは、経済全体の希少な資源を、生活物資の生産の方にではなく戦争遂行や兵器生産の方に配分しなければならなかったからである。戦時期の日本政府は、そのために、大規模な増税や戦時国債の大量発行を行った。それは、戦争目的のために、物的資源の多くを政府がその資金を通じて人々から奪い取ったことを意味する。

幸いなことに、今回のコロナ危機に関しては、マスクや医療サービス等に局所的な供給制約が生じたとしても、戦時のような全般的な供給不足が生じる可能性は少ない。というのは、休業や休職の拡大によって財貨サービスの供給が全体として減っているのは確かにしても、他方では、飲食業、観光業、レジャー産業等々に対する、経済全体での大幅な需要の減少が生じているからである。したがって、現状のように通常の生活物資や消費財が潤沢に供給され続けている限り、ごく一部の生活物資に一時的な供給制約が生じることはあったとしても、戦時のような全般的な困窮が生じる可能性はない。

もちろん、休業や休職によって財貨サービスの供給が減少したのであるから、人々の所得は確実に減少する。それは、政府が自らの債務を用いて人々に所得補償や定額給付を行わない限り、人々の直接的な窮乏化となって現れる。そしてその影響は、現在よりはむしろ将来における経済収縮として現れることになろう。政府が今、所得補償や定額給付を通じた財政的肩代わりを惜しんではならないのは、そのためである。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

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