コラム

新型コロナ対応に必要とされる準戦時的な経済戦略

2020年04月09日(木)17時10分

計画、規制、割り当て、そして誘導

戦時経済体制の典型的な実例は、戦争目的が最優先された太平洋戦争時の日本経済である。その時がそうであったように、戦争の遂行に何よりも必要なのは兵器であり、その生産がすべてに優先される。とはいえ、兵器生産や戦争遂行のためにも、最低限の経済活動は維持しなければならない。しかし、経済全体の資源は有限であるから、兵器生産の拡大のために資源が投入されれば、人々は消費を減らすしかない。すなわち、兵器と消費との間にはトレード・オフが存在する。そこで、日本の指導層は当時、「欲しがりません勝つまでは」というスローガンを掲げて、兵器生産や戦争遂行のために国民生活をぎりぎりまで切り詰めようとしたのである。

当然であるが、戦争を遂行するのは政府であり、そのために必要な兵器を企業から調達するのも政府である。したがって、戦時の政府は、その財政計画を含めて、必ず戦争遂行のための経済計画を策定しなければならない。上述のように、そこには常に「最低限の民間経済活動は維持しつつも、国民の消費はできる限り抑制する」という目標が含まれる。しかし、その目標は、単に経済を市場における人々の自発的取引に委ねているだけでは実現できない。そこで政府は、規制、割り当て、そして誘導といった手段を用いてその目的を実現しようとする。

戦争遂行にはそのための経済的計画が必要であるのと同様に、新型コロナのような疫病の克服にも、まずは政府の計画が必要である。その重要性は、感染拡大の阻止に時間がかかり、人々の自由な経済活動を政府が抑制せざるを得ない局面が長引けば長引くほど高まる。というのは、兵器と人々の消費との間にはトレード・オフが存在するのと同様に、感染拡大抑止と人々の自由な経済活動との間には明らかなトレード・オフが存在するからである。政府の「見える手」のみが、その両者の間のバランスを取ることができる。

政府は、このトレード・オフを前提として、感染拡大抑止のためにどの程度まで経済活動を制限すべきかについて、感染終息時期についての将来的な見通しに基づく一定の目標計画を持つ必要がある。ここで感染終息の将来予想が重要なのは、仮に感染終息にはとてつもない時間がかかると予想される場合には、むしろ経済活動の停止が続くことによる人々の経済的困窮の方が大きな問題となる可能性もあるからである。財貨サービスの提供が物理的に不可能になれば、社会は必ず成り立たなくなる。したがって、社会はその場合には、経済の維持のために感染拡大を甘んじて受け入れるほかはない。逆にいえば、政府が経済活動を強く抑制し続けられるのは、それによって感染が確実に終息するという見通しがある時のみなのである。

多くの国は現状で、経済活動を抑制し続ければ感染は確実に終息するという前提の下で、新型コロナ対応のための政策を実行している。実際、世界で最初に新型コロナの感染爆発が起き、1月23日から都市封鎖が実行された中国の武漢市では、それによって感染が終息し、4月8日には都市封鎖が解除され、経済活動も徐々に再開され始めた。同様な徴候は、厳しい都市封鎖を続けているイタリアなどにも見られる。その経済活動の制限のために各国政府が行ったこととは何かといえば、それは戦時経済のケースと同様に、もっぱら規制、割り当て、そして誘導であった。

法的規制か道徳的規制か

戦時経済では、人々の経済的厚生よりも戦争目的が優先される。そこでは、平時には空気のように存在していた自由な経済活動が、それが戦争遂行の妨げになると見なされる場合には、大きく規制あるいは制限されることになる。

近代社会では一般に、当事者双方が合意した商取引は、通常はそれが第三者に直接的な損害を与えない限りは許容される。それが、近代法における「営業の自由」の意味である。それは、当事者双方が合意した商取引は必ず双方の利益になっているはずであり、したがってその分だけは「個人の総和としての社会」の利益をも増やしているはずだからである。しかし、人々の経済的厚生よりも戦争目的が優先される戦時経済では、その近代社会の原則はいったん棚上げされる。そこではしばしば、奢侈財や一部の娯楽のように、戦争遂行には役立たないとかその妨げになると見なされる財貨サービスの取引は、厳しく規制あるいは制限される。

今回の新型コロナ危機に際して、感染拡大が生じた国や地域の政府や自治体は、単に民間企業や店舗などに対して生産活動や営業の停止を求めただけでなく、人々の物理的な移動を禁じる都市封鎖といった措置を講じた。これは、戦時経済の場合と同様に、感染拡大の阻止という公共の利益のために、人々の自由な活動の権利という近代の原則がいったん棚上げされたことを意味する。

その規制という点に関しては、日本の場合、緊急事態が宣言されたとはいっても、新型インフルエンザ等特別措置法で具体的に明示されている法的強制力を持つ措置はきわめて限定されている。たとえば日本では、外出自粛要請はできても、強制力を持つ外出禁止措置は実行できない。つまり、日本で実施できる規制措置の多くは、単に人々の心理に働きかける道徳的なそれにすぎない。これは、日本の場合には、後述する「経済的な誘導」によって補完されない限り、その規制措置の多くが実効性を持たないことを意味する。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

アングル:スイスの高級腕時計店も苦境、トランプ関税

ワールド

ルビオ氏「日米関係は非常に強固」、石破首相発言への

ワールド

エア・インディア墜落、燃料制御スイッチが「オフ」に

ワールド

アングル:シリア医療体制、制裁解除後も荒廃 150
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:大森元貴「言葉の力」
特集:大森元貴「言葉の力」
2025年7月15日号(7/ 8発売)

時代を映すアーティスト・大森元貴の「言葉の力」の源泉にロングインタビューで迫る

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「ベンチプレス信者は損している」...プッシュアップを極めれば、筋トレは「ほぼ完成」する
  • 2
    完璧な「節約ディズニーランド」...3歳の娘の夢を「裏庭」で叶えた両親、「圧巻の出来栄え」にSNSでは称賛の声
  • 3
    シャーロット王女の「ロイヤル・ボス」ぶりが話題に...「曾祖母エリザベス女王の生き写し」
  • 4
    アメリカを「好きな国・嫌いな国」ランキング...日本…
  • 5
    トランプはプーチンを見限った?――ウクライナに一転パ…
  • 6
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、…
  • 7
    セーターから自動車まで「すべての業界」に影響? 日…
  • 8
    『イカゲーム』の次はコレ...「デスゲーム」好き必見…
  • 9
    主人公の女性サムライをKōki,が熱演!ハリウッド映画…
  • 10
    日本人は本当に「無宗教」なのか?...「灯台下暗し」…
  • 1
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、ネットが感動の渦
  • 2
    日本企業の「夢の電池」技術を中国スパイが流出...APB「乗っ取り」騒動、日本に欠けていたものは?
  • 3
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...父親も飛び込み大惨事に、一体何が起きたのか?
  • 4
    シャーロット王女の「ロイヤル・ボス」ぶりが話題に..…
  • 5
    「本物の強さは、股関節と脚に宿る」...伝説の「元囚…
  • 6
    「飛行機内が臭い...」 原因はまさかの「座席の下」…
  • 7
    アリ駆除用の「毒餌」に、アリが意外な方法で「反抗…
  • 8
    為末大×TAKUMI──2人のプロが語る「スポーツとお金」 …
  • 9
    孫正義「最後の賭け」──5000億ドルAI投資に託す復活…
  • 10
    後ろの川に...婚約成立シーンを記録したカップルの幸…
  • 1
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 2
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 3
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事故...「緊迫の救護シーン」を警官が記録
  • 4
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 5
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 6
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 7
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 8
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 9
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 10
    「うちの赤ちゃんは一人じゃない」母親がカメラ越し…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story