コラム

財政負担問題はなぜ誤解され続けるのか

2018年12月10日(月)16時10分

この最初の命題を論証するために、『経済学』第19章の付論では、「負担ゼロの極端な場合」という、以下のような設例が提示されている。


いまかりにすべての負債が過去の戦争のおかげで生じたとしよう。さて、その戦争は終わった。そこで、かりにすべての家族が(1)理想的な、そして何の偏りもない租税制度のもとで平等に負担を分け合うとし、(2)公債も均等に保有しているとし、(3)誰もが(あるいは個人として、または一体化した家族として)永久に生きるとする。だとすれば、外国に対する負債がない場合、われわれはそれこそ「皆で自分に借金している」状態にあるといってよい。

上の前提のもとでは、この種の債券はわれわれの背中にのせられた岩のようなものではないことがはっきりしている。債券の紙の重さほども負担とはならないだろう。もしもわれわれが全員一致でその債券を廃棄することに決めたとしても、そこには何の相違も生じないであろう。(616頁)

付論ではこれに引き続き、今度は逆に公債が資本ストックの減少を通じて将来世代に負担をもたらしているようなケースが例示され、「内国債である限り将来負担は生じない」という主張が一般的に真ではないことが説明されるのである。

なぜ「政府債務=背中の岩」説が信じられ続けるのか

『経済学』ではこのように、赤字財政の負担は確かに将来世代に転嫁されている可能性はあるものの、それは多くの人々が信じこまされているような「国民ひとりひとりが背負わなければならない岩」のようなものでは決してないことが明確に説明されている。そのことは、「将来世代全体の消費可能性はその所得によって決まるのであり、それぞれがそれぞれに対して持つ債権債務によるのではない」という自明な事実からも明らかである。

このような経済学的知見からすれば、その大部分が内国債によって賄われ続けてきた日本の財政赤字が本当に将来世代の負担となっているのかどうかについては、慎重な吟味が必要だったはずである。しかし、上記「建議」の中に、そのような視点を見出すことはできない。その述べるところはむしろ、上の「背中の岩」説にきわめて近い。

『経済学』が指摘するように、「政府債務=背中の岩」説は、経済学的には単なる謬論にすぎない。したがって、仮にそれが政策論議の中で公言されたとすれば、それはもっぱら政治的プロパガンダとしてのみ取り扱われるべきものである。しかし、滑稽なことに、日本の経済論壇においてはむしろ、そのような議論こそが「将来までをも見据えた真摯な政策論」として持ち上げられがちなのである。

『経済学』第19章では、人々が政府債務の「負担」をかくも過大視してしまう傾向に関して、歴史家マコーレイによる1世紀以上も前の論述を引用している。以下がそれである。


その負債がふえていく各段階ごとに、国民は相も変わらぬ苦悩と絶望の叫びをあげた。その負債がふえていく各段階ごとに、賢者たちは破産と破局が目前に来ていると本気になって主張した。しかも、負債はふえる一方で、にもかかわらず破産や破局の徴候はいっこうに見受けられなかった。...

災厄の予言者たちは二重の幻想を抱いていた。彼らはある個人が他の個人に負債を負っている場合と社会がみずからの一部にたいして負債を負っている場合とのあいだに完全な類似があると錯覚したのである。...彼らはさらに、実験科学のあらゆる面でたゆまない進歩が見られ、誰もが人生で前進の努力を不断に行うことの結果得られる効果を考慮に入れなかった。彼らは負債がふえるという点だけを見、他の事がらも同じく増加し成長したことを忘れたのである。(606頁)

『経済学』第19章では、この引用に続いて、アメリカの公債残高の国民総生産に対する比率が戦後から1970年代まで一貫して減少し続けてきたことが指摘され、それはもっぱらインフレーションと経済成長との相乗効果によるものであることが明らかにされる。そして実は、このことこそがまさに、日本の財政にとっての真の課題なのである。というのは、日本の財政状況が「悪化」したのは事実にしても、その原因は人々の放蕩ではなく、「デフレーションと低成長との相乗効果」以外ではあり得なかったからである。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

焦点:トランプ税制法、当面の債務危機回避でも将来的

ビジネス

アングル:ECBフォーラム、中銀の政策遂行阻む問題

ビジネス

バークレイズ、ブレント原油価格予測を上方修正 今年

ビジネス

BRICS、保証基金設立発表へ 加盟国への投資促進
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプvsイラン
特集:トランプvsイラン
2025年7月 8日号(7/ 1発売)

「平和主義者」のはずの大統領がなぜ? 核施設への電撃攻撃で中東と世界はこう変わる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「飲み込めると思った...」自分の10倍サイズのウサギに挑んだヘビの末路
  • 2
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...父親も飛び込み大惨事に、一体何が起きたのか?
  • 3
    「やらかした顔」がすべてを物語る...反省中のワンコに1400万人が注目
  • 4
    【クイズ】「宗教を捨てる人」が最も多い宗教はどれ?
  • 5
    後ろの川に...婚約成立シーンを記録したカップルの幸…
  • 6
    ワニに襲われた直後の「現場映像」に緊張走る...捜索…
  • 7
    職場でのいじめ・パワハラで自死に追いやられた21歳…
  • 8
    ワニに襲われた男性の「最期の姿」...捜索隊が捉えた…
  • 9
    吉野家がぶちあげた「ラーメンで世界一」は茨の道だ…
  • 10
    為末大×TAKUMI──2人のプロが語る「スポーツとお金」 …
  • 1
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で大爆発「沈みゆく姿」を捉えた映像が話題に
  • 2
    ワニに襲われた男性の「最期の姿」...捜索隊が捉えた発見の瞬間とは
  • 3
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...父親も飛び込み大惨事に、一体何が起きたのか?
  • 4
    突然ワニに襲われ、水中へ...男性が突いた「ワニの急…
  • 5
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 6
    「飲み込めると思った...」自分の10倍サイズのウサギ…
  • 7
    夜道を「ニワトリが歩いている?」近付いて撮影して…
  • 8
    仕事ができる人の話の聞き方。3位は「メモをとる」。…
  • 9
    「やらかした顔」がすべてを物語る...反省中のワンコ…
  • 10
    砂浜で見かけても、絶対に触らないで! 覚えておくべ…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 3
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 4
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の…
  • 5
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 6
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事…
  • 7
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 8
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 9
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 10
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story