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ニューズウィーク日本版編集部 From the Newsroom
メディアという「裸の王様」
昨年暮れ、ニューヨーク支局に赴任した編集部の小暮さんから最近、メールをもらった。大まかに言うと、「ニューヨークで発行されているフリーペーパーを読んでいたら、現地在住ジャーナリストの武藤芳治氏が書いたコラムが目に留まった。 これを読んで、長岡さんが震災報道でのメディアのスタンスについて何度か書かれていたことを思い出した。この間長岡さんがアルジェリアの実名報道について書いた記事を読んだとき、『実名報道が必ずしもいいわけではない』と書かれているように読めたので、アルジェリアについては実名報道はいらなかったのかな?と少し混乱した。今後の指針として長岡さんがこのコラムについてどう思うか聞きたい」――という内容だった。
「アルジェリアの実名報道についての記事」とは、2月5日号で筆者が書いた「被害者の名前は公表されるべきか」はという短い記事のことを指している。この中で、筆者はアルジェリアの人質事件で問題になった被害者の実名報道について、次の記事を書いた。
アメリカ人、イギリス人など外国人24人が死亡したアルジェリア人質事件。うち日本人10人の遺体は先週、無言の帰国をしたが、日本では被害者をめぐるある論争がメディアとネットを騒がせた。実名報道の是非だ。
1月16日の事件発生直後から、日本政府とプラントメーカー日揮は被害者家族に取材で過剰な負担がかからないよう、氏名公表を控えていた。ただ海外で多数の日本人が殺害された事件で氏名が一切伏せられるのは極めて異例だ。大手メディアでつくる内閣記者会は先週、安倍首相に氏名公表を申し入れた。
「実名報道で人としての尊厳が伝わる。真実性も担保される」というメディア側の主張は、最近特にネットで手ひどく批判されている。メディアが過去に同様の事件で、時に違法行為ぎりぎりの過剰取材を繰り返してきたことが背景にある。
日本政府は結局、遺体の帰国直後に被害者の氏名を公表した。メディアはこれまで「国民の知る権利」を盾に実名報道の必要性を主張してきた。ただ当の国民が、今もメディアが必死に追う情報を必要としているとは限らない。
小暮さんから今回、実名報道について聞いてきたのは、筆者が2年前のニュージーランド地震の時に「奥田君インタビューはそんなにひどくない」という記事を書いたからだ。地震で足を切断した男性への単独インタビューをまず朝日新聞が掲載し、これを追いかけたフジテレビのインタビューがひど過ぎるとネットで話題になっていたので動画を見てみたら、ごく自然な聞き方(というよりむしろ、丁寧に言葉を選びながら気を使っているように見えた)だったので、「プロの記者として『足切断』を聞くのは当然」と書いた。案の定、同業の記者からは支持されたがネットユーザーの間では不評で、この時に小暮さんから取材の必要性について聞かれ、「僕がデスクで小暮さんが現場の記者なら、『かわいそうで聞けない』という言い訳は許さない。聞けるまで帰るな、と言うと思う」と答えた。
筆者が新聞記者だった時、先輩から「実名報道は国民の知る権利に応えるために絶対に必要だ」と教えられたし、またそう信じてもきた。「いったん当局に匿名発表を許すと、それを口実に権力側が今後、自分たちの都合の悪い情報を出さなくなる」という理屈もよく聞かされた。この2つは今も、取材の現場で実名公開を迫る記者側が持ち出すロジックの代表格だろう。これ以外に、「被害者の供養になる」というのや、「記者は歴史に事実を刻まねばならない」というのもある。
今回のアルジェリア人質事件が起きた直後の1月23日、当事者の日揮や日本政府が被害者の実名を発表しない方針だと聞いて、反射的に「アルジェリア人質事件。かつて記憶にないほど、被害者個人とその家族の情報が紙面・画面に現れていない。日揮と政府の情報管理だけでなく、無茶なプライバシー取材をした反省ゆえ、というメディア側の事情もあるだろうが、(続)」「これだけ『顔』が見えず、『23人』『9人』という数字だけしか紙面・画面に現れないままだと...事件が何事もなかったかのように忘れられてしまうことを危惧する」とツイートした。筆者の中で、「歴史に事実を刻むべき」「匿名容認は当局に先例を与える」という「プロ意識」が働いた結果だ。その後、アルジェリア人質事件の被害者の実名公開をめぐるメディアと政府・日揮、さらにネットユーザー間の攻防は、結局政府が死者の名前を公表することで決着するわけだが、筆者はこの間に犯罪や災害の被害者取材にあり方について、考え方をほぼ180度変えた。そのきっかけは、ウェブで読んだ2本の記事だ。
1本は元毎日新聞記者のジャーナリスト佐々木俊尚さんが書いた「アルジェリア人質殺害事件とメディアスクラム」という記事だ。佐々木さんは事件・災害直後のメディアスクラムとまっとうな被害者取材を分けて考え、メディア側がまっとうな被害者取材の正当性を主張しているのに対し、遺族や被害者取材をする側はメディアスクラムを糾弾している、とズレを指摘したうえで、それでもなおかつメディアにこう警鐘を鳴らしている。
......でもその一方で感じるのは、「なぜかみなさん、自分も自分に近い人もメディアスクラムには関係がなく、真っ当な取材をしていると言いたがるね」ということだ。まあ「私はメディアスクラムをしてきました」とは書きにくいだろうからかもしれないが、ではそういうメディアスクラム的な非道な取材をしている人がそんなに稀なのなら、なぜあれほどの社会問題になってしまうのだろうか? メディアスクラムの記者はいったいどこにいるんだろうか?
(中略)
上司から「法律に違反してでもいいから関係者宅の住所を突き止めろ!」とか言われて突き止めたことも何度かあるし、「この電話番号の持ち主の住所を調べよ」みたいな無茶な要求をされて、やっぱり今思ってもかなりひどいことをして住所を調べたこともある。やった内容は怖くていえない。
私は「ちゃんとした遺族取材をしてる記者はたくさんいる」「世の中はメディアスクラムだけじゃない」とかいう気持ちがまったく起きない。だって、あなたもやったでしょう? やってないとは言わせませんよ。
「きれいごと」を語るだけでなく、自らの汚れた手を見つめよ、メディアにその「きれいごと」を語る資格があるのか――法律の世界で言うところの「クリーンハンドの原則」だ。佐々木さんの考えに共感するのは、もちろんかつての筆者の手も真っ黒に汚れていたからだ。他社がキャッチしてないネタを取れるなら法律ギリギリ、時に法律の壁を乗り越える取材もいとわない。後にそれが明らかになっても、「武勇伝」として語られることこそあれ、被害者側から強く抗議されない限り、社内で問題視されたり処分に至ることはない――それが10年近く前の新聞社を包む「空気」だった。
「今のメディアはもっとましだ」という現役諸氏の言い分もあるだろう。ただメディア内の基本的な「空気」はそれほど変わってない、と筆者は感じている。それは、ウェブでアルジェリア事件の被害者の親族である本白水智也さんの「アルジェリア人質拘束事件 実名報道 朝日新聞記者と私のやりとり」というブログを読めば分かる。本白水さんは「『人物が特定できるような記事は書かない』『記事にする際には私に許可を取る』と約束したのに、無許可で実名報道した」と、朝日新聞に抗議文を送っている。
おそらくテープで録音していたわけでもないだろうから、ブログで明かされている朝日記者と本白水さんのやり取りがすべて正しいかどうか分からない。ただ、おそらく大筋では本白水さんの言っている通りなのだろうと思う。それは、かつて筆者や筆者の周りでこれと同じ「手口」の取材が日常的に行われていたからだ。言葉巧みに取材相手を籠絡し、ネタを取る記者は新聞社内で重宝されこそすれ、決して軽蔑を受けることはない。「結果オーライ」だ。この朝日記者と本白水さんのやり取りにも、それとまったく同じ匂いを感じる。
ある意味、今の記者は気の毒だと思う。なぜなら、筆者や筆者の先輩たちが積み上げてきた「負の遺産」を背負わされ、現場では被害者やその家族から、会社に帰ってパソコンを立ち上げればネットユーザーから「マスゴミ」と悪罵されるのだから。ただメディアは今も「国民の知る権利」を振りかざす。だが、そもそも国民がどれだけ事件や災害の被害者の「ストーリー」を求めているのか。その読者ニーズは、被取材者が心穏やかに暮らす権利と比べても重視されなければならないものなのか。
小暮さんが冒頭で紹介してくれたニューヨーク在住のジャーナリスト武藤芳治さんは、有名なロバート・キャパの写真「ある兵士の死」とベトナム戦争でAP通信のエディ・アダムズが撮った「サイゴンでの処刑」を引き合いに、「記録されないものは歴史に存在しない」「もしあの写真がなかったら、あの記事がなかったら分からなかった現実がある」と書いている。ただキャパのあの1枚や「サイゴンでの処刑」と、横並びや「ヒラメ思考」ゆえのメディアスクラム、あるいは特ダネ狙いのだまし討ち取材が同列であるはずもない。おそらく武藤さんもそれをよく分かっているのだろう。記事の最後の一文は「『読者を信じよ』の前にはもちろん、読者に信じられるような『書き手』であることが大前提なのですが」と結ばれている。
そもそもメディアが当局に実名公表を求めるのは、すべてを隠されるようになる、と自分たちで被害者の名前や住所など固有名詞を「割る(突き止める)」のが非常に煩雑になるからでもある。国民の代弁者として「知る権利」を振りかざすメディアが、一方で権力の監視機構として十分機能しているかというと甚だ心もとない。「第四の権力機関」とは、三権をチェックする組織という意味でなく、三権の風下でネタのおこぼれを預かる「四番目の権力」という意味ではないかと思えてくる。「権力監視」を掲げて実名取材をしながら肝心の権力監視ができず、メディアスクラムや非道な取材を繰り返すのであれば、詐欺もいいところだ。時代と共に、求められる報道も変わる。「思考停止」するメディアの怠慢と欺瞞に、国民の側はとっくに気付いている。
王様は裸だ。それに気付かないのは、王様だけだ。
今、小暮さんに被害者取材について聞かれたら、きっと「取材が被害者自身と社会のためになると自分で確信がもてないのなら、話を聞かずに帰って来ていい」と答えると思う。
――編集部・長岡義博(@nagaoka1969)
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