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コラム
ニューズウィーク日本版編集部 From the Newsroom
フィリピンの笑顔とニッポンの未来
その場所を訪れたのは、10年ぶりだった。フィリピン・ルソン島の首都マニラから北へ車で約6時間、パンガシナン州スアル市バキアン村。観光客など皆無のその村の、海を見晴らす丘の上に、通称「子どもの家」がある。日本人とフィリピン人が共同で作り上げた児童養護施設だ。
10年前、NPO法人Caring for the Future Foundation Japan(CFF)主催の「ワークキャンプ」に参加した。このワークキャンプは、日本人約20名とフィリピン人の青年たちが2週間、衣食住を共にしながら「子どもの家」の建設作業を行うというもの。汗と泥で真っ黒になりながら砂袋を運んだり、セメントをこねたり。貧困の中で生きるフィリピン人と語り合い、それまで全く知らなかった価値観を学んだり。太平洋戦争の戦場となったルソン島で、学校では習わなかった歴史の一端を目の当たりにしたり。体と頭と心を駆使した非日常的な体験を通して、日本の青年たちは自分や他者、そして自分の人生を見つめ直して帰国する――そんな経験だった。
だが、当時「子どもの家」に子どもはいなかった。あれから10年間、CFFは毎年数回のワークキャンプを通して日本の若者をフィリピンに派遣し続けながら、「子どもの家」の建設・運営を徐々に拡大。その間に子どもの受け入れを開始し、現在は8歳から18歳まで14人が生活しているという。自分が建設作業に関わったあの地で、どんな子がどんな生活を送っているのだろう。そう思い立ち、冬休みを利用して彼らに会いに行ってきた。
「子どもの家」に着いたときは、まるで転校生になったかのような心境だった。貧困や家庭の問題などで家族と一緒に暮らせなくてやって来た子どもたちに、馴染めるだろうか。心を閉ざしているんじゃないかと、不安は募るばかり・・・・・・。だが車から降りると、そんな心配は一瞬にして消え失せた。子どもたちが「アテー!」(タガログ語で「お姉ちゃん」の意味)と満面の笑みで近寄ってくる。あまりの無邪気さに、まぶしすぎて卒倒しそうだ!
こうして始まった6日間の「子どもの家」での生活。ニュースを追いかける日常から離れ、3食きっちり食べて、子どもたちと遊び、本を読んで、日記をつける。ネットがなくテレビも観ないのに、あっという間の6日間。時間が短く感じられたのは、毎日、子どもたちの一言一行に驚くことの連続だったからだ。
朝7時、昼12時、夕方18時になると、食事の時間を知らせるブザーの爆音が「子どもの家」の敷地内に鳴り響く。その音で子どもたちやスタッフが大集合し、長く連ねた1つのテーブルを囲んでご飯を食べる。毎日3回行われる、「子どもの家」の日課だ。
1日目の朝、眠すぎてフラフラの状態で食事場所に降りていくと、朝から元気いっぱいのアンジェラ(仮名・8歳)が「アテー!」とすっ飛んできて、席まで連れて行かれた。各自の席の前には、お皿と水の入ったコップが各自1つずつ。テーブルの前に数枚だけ置かれている大皿には、てんこ盛りのご飯とおかずが2種類ずつ。全員が席に着くと、子どもの1人が感謝の祈りを唱える(フィリピン人の大半はカトリック)。みんなで十字を切ると、全員で一斉に「せーのっ、いただきまーす」と日本語で大合唱!
眠気は一気に吹き飛んだ。ご飯は大皿から各自で皿に取り分ける仕組みらしい。子どもたちはこちらが目を丸くするほどたらふく食べるくせに(ご飯なら茶碗に3杯分くらい)、驚いたことに全然ガツガツしていない。8歳から18歳の子まで、大皿のおかずを取り合うなんてことはなく、周りの子どもたちの食べ具合を見た上でつつましく「おかわり」の手を出している。
アンジェラは大皿のボールに入った具なしラーメンをご飯にスープごとかけて食べるのが好きらしく、テーブルの上を移動するボールの行方を目で追っている。だが「とって!」とか「ちょーだい!」なんて口にせず、ボールが回ってくるのを密かにじっと待つのみだ。その間にも、私のコップに水がなくなるのを見てすかさず席を立ち、何も言わずに水を入れてきてくれる。8歳の女の子が「持ってきてあげる」と言うのでもなく、ごく自然な振る舞いとしてこれをやってのける――そのあまりの「あっぱれさ」にこちらが驚嘆しているそばから、最年長のニコール(仮名・18歳)が隣の席の8歳の男の子の皿から魚の骨をきれいに取り除いて、食べるのを手伝ってあげている。1日3回、年齢がバラバラの約20人の「家族」が向かい合って、わいわいおしゃべりしながらご飯を食べる。気配りや作法、そして笑い声が詰まった、幸せな食卓。そんな食事のシメは、毎回「せーのっ、ごちそうさまでした!」
15年前、フィリピンの山奥にこんな幸せな空間を作ろうと思い立った日本人がいた。「子どもの家」を運営するCFFの前代表理事、二子石章(74)だ。当時、埼玉県でツッパリといわれる青少年の問題に取り組んでいた二子石が、日本の若者を率いてフィリピンの子どもたちのために活動しようと、96年にCFFの前身団体を設立。スタート時点ではワークキャンプに参加する日本人は年間50人程度で、日本でのCFFの活動メンバーはキャンプから帰ってきた学生数人を含め、10人前後しかいなかった。
だが15年が経った今、CFFはマレーシアにも活動を広げ、2カ国で行われるキャンプに参加する日本人は年間約600人。現在、日本での活動メンバーはワークキャンプやスタディーツアーから帰国した学生や若手社会人、彼らを支援する大人を含めて延べ500人を越える。有給スタッフは一握りしかいないなか、若手ボランティアがワークキャンプを運営して「子どもの家」を支え、巣立っていく子どもが大学に進学できるよう奨学金集めなどの活動を続けてきたという。現在精力的に活動しているのは、「ゆとり世代」と揶揄されがちな年齢層の若者たちだ。有難くないレッテルとは裏腹に、彼らは自分の意志でキャンプへの参加を決め、自分の頭と足を使って、帰国後も積極的に活動を続けている。
そんな日本の若者たちを駆り立てるのは、貧しい環境にあるフィリピンで強く生きる子どもや青年の姿だ。フィリピンは経済格差が大きく、人口の約3分の1が貧困層。食糧価格の高騰や金融危機、相次ぐ台風の影響で、貧困層は過去4年間で400万人増加したとも言われる。特に農村部の貧困状況が深刻で、貧困層の教育レベルは小学校卒業程度がほとんどだ。「子どもの家」にもわずか数年前までは路上で生活していたり、母親に虐待されていた子どもがいる。「子どもの家」に滞在中にも、ふとしたときに離れ離れになった兄弟姉妹の話をしてきた子どもがいた。彼らは、笑顔の奥に底知れぬ悲しみを抱えていたのかもしれない。それでも、毎日明るく元気に駆けずり回り、笑顔でご飯を食べるのだ。
「子どもの家」でスタッフとして働き出して3年目の石井丈士(24)も、そんな彼らの姿に触発された1人。大学1年のときにCFFのワークキャンプに参加し、3年後には長期インターンとして「子どもの家」を再訪した。その石井は、9歳のジャスティン(仮名)とこんな会話をしたという。
「クヤ(お兄ちゃん)。日本に行くチケットはいくらするの?」
「うーん、25くらいかな(25 thousandペソ=約5万円という意味)」
「え!? 25ペソ(約50円)だけ?」
「違うよ! 25,000ペソって意味だよ」
「え!? 高い! じゃあ、いいや!」
「もし大人になって日本に来たら、好きなものなんでもご馳走してあげるよ。高くてすっごくおいしいもの、なんでも食べさせてあげる!」
「でも、日本までの行き方わかんないもん」
「マニラから飛行機に乗ったら日本だよ」
「でも、クヤの家わかんないもん」
「空港まで車で迎えに行ってあげるよ。きっとキャンプに参加したみんなもたくさん会いにきてくれるよ!」
「本当に!? ○○お姉ちゃんとか、○○お姉ちゃんとかに会いたいな。約束だよ!」
フィリピンと日本の経済格差が途方もなく大きいことを考えれば、ジャスティンが日本行きを達成するのは容易なことではない。それでも、具体的な希望は自立に向けた努力を後押しするかもしれない。子どもたちが懸命に生きる姿は、日本の青年たちの背中を押すことにもなる。「子どもの家」は、フィリピン人と日本人の青少年に共に夢を抱かせ、笑顔を生む場所だ。15年前にわずか数人の若者を引き連れてCFFを立ち上げた二子石は、「青年たちの夢が次の世代を呼び、CFFの活動は続いていく」と語る。「子どもの家」で芽生えた子どもや青年たちの夢が、将来どんな形で実を結ぶのか。笑顔の先を、期待せずにはいられない。
――編集部・小暮聡子
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