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今、あらためて考える草間彌生という存在──永遠の闘い、愛、生きること(1)
だが、草間の才能をさらに開花させたのは、ニューヨークである。1957年シアトルでの個展を期に渡米し、その後ニューヨークを拠点にすることになるが、以前より、戦後のアート界の最先端はパリではなくニューヨークだと感じ、何とかニューヨークに行こうと、ジョージア・オキーフに自ら手紙を書くなどしていたという。
実際、1964年のヴェネツィア・ビエンナーレでアメリカ人アーティストのロバート・ラウシェンバーグが金獅子賞を受賞したことはアートの中心が欧州からアメリカに移行したことを顕在化したわけだが、草間はものを創る才能だけでなく時代の流れを読み取る力とそれを手繰り寄せる能力にも長けていたようだ。
行き着いたニューヨークは、女性が単独で個展を開くことさえ困難な時代で、かつ日本人であるにもかかわらず、草間は1959年に当地で初の個展を開催している。その際に発表した、画面を覆うオール・オーヴァー的で奥行きのない平面性をもった大画面の絵画《無限の網》は、抽象表現主義が下火となり、ミニマリズムやカラーフィールド・ペインティング、ポップアートなど新しい表現が台頭しつつあった当地のアート界で評価され、ハーバード・リードら著名な批評家に注目されたり、ドナルド・ジャッドに作品を購入されたりもしている。
彼だけでなく、マーク・ロスコ、バーネット・ニューマン、アンディ・ウォーホル、クレス・オルデンバーグら時代の最先端を走る才能が群雄割拠していた時代である。1998年の台北ビエンナーレ等の準備のために過去に何度か直接話をする機会を得た際、草間は自分の表現を他のアーティストたちに「盗られた」と何度となく口にしていた。その真偽のほどは別として、それだけ次なる先駆的表現を誰が打ち出すか、しのぎを削る現場に彼女は身を置いていたのである。
1961年には布製男根状の詰め物をいくつも反復、増殖させて椅子やベッドやボートに貼り付けたソフト・スカルプチュアに取り組むようになる。そうした「アキュミュレーション(集積)」は部屋全体やエンヴァイラメントに拡がり、また鏡の使用で無限に強化されていった。
その鏡の効果を用いた《無限の鏡の間-ファルスの原野》以降、草間はミラールームを何度も制作し、代表作となっていった。このように、男根の形で対象を埋めつくす作品を繰り返し作ることで、彼女は男根への恐怖感や性への嫌悪感を克服していく。
再び日本へ。多様化する表現、そして再評価へ。
さらに、そうしたより広い環境へと拡大するイメージのもうひとつの方向性にあったのが、1960年代より路上などで展開することになるハプニングだ。特に1967年から1970年に入るまでの間には、自然に帰ろう、人間性を取り戻そうというヒッピー・ムーブメント、ベトナム反戦運動の高まりや資本主義経済への批判などを背景に、裸に水玉のボディ・ペインティングを施したり、草間デザインのファッションに身を包んだモデルたちによるデモやファッションショーが室内や街頭で大量に繰り広げられることとなった。
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