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今、あらためて考える草間彌生という存在──永遠の闘い、愛、生きること(1)
そして、ベネッセアートサイト直島も、また草間を追うように、福武書店からベネッセコーポレーションへの社名変更を記念して、続く1995年のヴェネツィア・ビエンナーレに進出。当地で展覧会を開催するとともにベネッセ賞を発足・継続することで徐々に国際的なネットワークと世界のアートシーンでの知名度を高めていくことになった。
つまり、ベネッセアートサイト直島の発展も草間の世界的評価と活躍も、この頃から本格化していったわけである。
海に突き出た古い桟橋の先端、陸と海の境界で孤高に佇む黄色い《南瓜》の姿は、タイトルの「Out of Bounds」 に込められた、既存の概念、制度などの境界を越えて多種多様な価値観と出合うという意図を反映しているが、また、様々な境界(エッジ)の拡大という現代アートの本質を体現するとともに、草間自身の姿ともどこか重なる。
それは、自らのトラウマを創造に転化し、様々な障害に抗いながら新しい地平を自ら切り開いてきた草間の生き様をも反映するとともに、異なる生き方や価値観について極東の離島から世界に発信してきたベネッセアートサイト直島の存在自体をも象徴しているようだ。
新たな地平ニューヨークでの挑戦
1929年、長野県松本市で種苗業、採種場を営む裕福な家庭に生まれた草間彌生が、絵を描くようになったのは幼少期からである。草間作品と言えば、一面を覆う水玉や網目が特徴的だが、それらは子供時代の体験から生まれたものであり、既にその頃の絵に要素が見て取れる。
「わたしが絵をかいたのは、芸術家になるためでなくって、困った病気、不安神経症、強迫神経症や偏執狂が原因。同じ映像がいくつもいくつも押しよせてくる恐怖、小学校の校舎の北側の壁のコンクリートの暗がりにいつも常動反復しながら一面に、壁の平面を這って増殖する白いブツブツが見えると、この魂が、フワフワと体からでていってしまう。そのこと、スケッチブックに、いつもかいていた。描いて、しっかり見てみないと、わたしは失神してしまう(注3)」。
戦前の保守的な家庭で、複雑な家庭環境に悩み、幻覚や幻聴から逃れるため、画面全体を覆い、埋め尽くすように描くようになった草間にとって、作品を作ることは、トラウマを克服する術であり、生きることと同義語であったと言えるだろう。
高等女学校を出た草間は、終戦後に京都の美術学校に編入し日本画の技術を身につけるが、結局、実家に戻り1950年以降、松本や東京などでも作品を発表するようになる。抱えたトラウマの一方で、美術評論家の瀧口修造が個展パンフレット用に寄稿文を書いたり、展覧会を企画するなど、早くからその才能は突出したものがあり、理解者も得ていたようだ。
注3. 谷川渥「増殖の幻魔」『美術手帖』1993年6月P67
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