コラム

映画『オマールの壁』が映すもの(2)不毛な政治ではなく人間的な主題としてのパレスチナ問題

2016年05月13日(金)16時22分

「パレスチナの解放」を信じ、パレスチナ人がそのためにすべてを犠牲にする「政治」は、すでに失われている。スローガンは残っているかもしれないが、形骸化している。故アラファト議長を継いでパレスチナ解放機構(PLO)とパレスチナ自治政府の議長になったアッバス氏は、国連総会で「パレスチナ国家」の承認を勝ちとったが、ヨルダン川西岸やガザでは、国家の実体はない。不毛な政治のもとで、パレスチナの若者たちは道に迷ったように、危うい手探りをしているのである。

 ただし、アブ・アサド監督はパレスチナ問題そのものに背を向けているわけではない。私が2007年にインタビューした時に、監督は「私にとって映画は抵抗の手段である」と語った。『オマールの壁』ではオマールとナディアのラブストーリーを、パレスチナ問題の枠を超える人間的な主題として見せる。しかし、その直後に、もう一度、オマールによるイスラエル秘密警察のラミ捜査官の銃撃という行動で、パレスチナ問題に立ち返る。それは不毛な政治としてのパレスチナ問題ではない。人間であることを取り戻すという意味でのパレスチナ問題である。

 そのような転換をする上で重要となるのが、パレスチナ人の若者をスパイに仕立て上げるラミ捜査官を、血の通ってない人間としてではなく、妻も娘もいる人間として描いているということである。

 映画では、オマールを尋問するラミ捜査官の携帯電話に妻から「娘を幼稚園に迎えに行って」という電話がかかってくるシーンがある。パレスチナ映画で秘密警察の取調官に、このような人間的な要素を演出するのは意外な気がする。アブ・アサド監督は「パレスチナ人の中には私が取調官を人間的に描きすぎているという見方がある。しかし、私は気にしない。さらに『あなたは穏やかに描きすぎる。現実はもっと厳しい』と、刑務所や拷問の描き方についての批判もある」と語っている。

 監督は続ける。「私はそんな批判に対して、映画は現実のコピーではないと答える。一方で、パレスチナ人は(占領によって)心に傷を負っているために、彼らを拷問する人間が、子供の世話をしていることなど見ようとしない。私は彼らに人間的な要素を与えることによって、彼らの行動はより恐ろしいものになると考える。つまり、『あなたには幼稚園にいる娘がいるのに、どうして他の人間にこんなことができるか』ということだ」

 イスラエルの取調官が人間的に描かれていることは、この映画を読み解く重要なかぎである、と私は考える。アブ・アサド監督は映画のキャラクターづくりで重要なことについて、「実際にいそうな人物であること」と「矛盾を抱えていること」と語っている。つまり、キャラクターの人間的なリアリティを重視するということだろう。だからこそ、ラミ捜査官にも、人間的なリアリティが与えられているのである。

プロフィール

川上泰徳

中東ジャーナリスト。フリーランスとして中東を拠点に活動。1956年生まれ。元朝日新聞記者。大阪外国語大学アラビア語科卒。特派員としてカイロ、エルサレム、バグダッドに駐在。中東報道でボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『中東の現場を歩く』(合同出版)、『イラク零年』(朝日新聞)、『イスラムを生きる人びと』(岩波書店)、共著『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』(集英社新書)、『「イスラム国」はテロの元凶ではない』(集英社新書)。最新刊は『シャティーラの記憶――パレスチナ難民キャンプの70年』
ツイッターは @kawakami_yasu

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