コラム

映画『オマールの壁』が映すもの(2)不毛な政治ではなく人間的な主題としてのパレスチナ問題

2016年05月13日(金)16時22分

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オマール(右)とイスラエル秘密警察のラミ捜査官 提供:UPLINK

 しかし、この映画はオマールがラミを撃つことについては、精緻な伏線を張っており、友人に向けるべき怒りを、イスラエルの占領に転化するような八つ当たり的な行動ではないことは読み解くことができる。映画を見た人は、伏線について読み取ることができただろうか。この映画を見る楽しみを残すために、ここでは、その種明かしはしない。

 ヒントとなるのは、オマールがラミを撃つ前に言った「サルの獲り方を知っているか」という言葉である。「サルの捕り方」とは、映画の前半でオマールとタレク、アムジャドの3人が集まった時に、アムジャドが披露した逸話である。それはこんな話だ。

 アフリカの猟師は野生のサルに砂糖を与えて、砂糖の味を覚えさせる。その後、地中に砂糖の塊を埋めて、手がちょうど入るくらいの穴をあけておく。サルは砂糖の臭いを嗅ぎつけて穴に手を突っ込む。そこへ猟師が来て、網でサルを捕まえようとするが、サルは猟師が来るのを見ても、砂糖をつかんだまま離そうとしないので、手が抜けずに、猟師に捕まってしまう。

 話を聞いてタレクが「何のためにサルを捕まえるんだ」とアムジャドに問う。アムジャドは「奨学金を与えてスウェーデンに送るんじゃないか」と答える。

「奨学金を与えてスウェーデンに送る」というのは、ヨルダン川西岸であれ、ガザであれ、希望のないパレスチナから脱出することを望むパレスチナ人の若者の夢である。

 オマールがラミを撃つのは、「私はサルではない」という意思表示である。オマールはイスラエルのスパイとして仲間を密告したわけでも、組織を裏切ったわけでもない。イスラエル軍に捕まり、全裸で天井からつるされて、尋問官から「誰が撃ったか言え」と問い詰められ、暴行を受けても、口を割らなかった。イスラエルにとってオマールは屈しない頑固な若者である。

 しかし、結果的にはオマールはイスラエルの協力者に仕立て上げられている。イスラエルにとっての真の密告者であり協力者であるアムジャドを守り、ナディアとの結婚という彼の夢をかなえ、スパイでありながら、幸福な家族生活を送ることを可能にしたのは、ほかでもないオマールなのだ。オマールはイスラエルの利益のために働いているのである。

 砂糖の味を占めて、罠にかかっても、砂糖から手を放さなかったというサルの逸話は、オマールに当てはめるとどうなるだろう。オマールにとっての「砂糖」とは何か? いろいろな見方があるだろうが、私は「名誉」だと考える。

 オマールが命がけで守ったのは、仲間を売らなかった「自分の名誉」であり、「ナディアの名誉」である。アラブ社会では未婚の女性に男性との関係が知られると、「名誉が汚された」として女性は自分の家族から殺されることもある。「名誉殺人」である。オマールは自分とナディアの「名誉」をつかんだまま離さず、罠にかかってしまったのだ。ところが、ナディアの「不名誉な妊娠」が作り話だと分かって、自分が罠にかかっていたことを知る。

プロフィール

川上泰徳

中東ジャーナリスト。フリーランスとして中東を拠点に活動。1956年生まれ。元朝日新聞記者。大阪外国語大学アラビア語科卒。特派員としてカイロ、エルサレム、バグダッドに駐在。中東報道でボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『中東の現場を歩く』(合同出版)、『イラク零年』(朝日新聞)、『イスラムを生きる人びと』(岩波書店)、共著『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』(集英社新書)、『「イスラム国」はテロの元凶ではない』(集英社新書)。最新刊は『シャティーラの記憶――パレスチナ難民キャンプの70年』
ツイッターは @kawakami_yasu

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