コラム

『わかりやすさの罪』から抜け落ちている「わかりやすさ」との戦い方

2020年09月23日(水)18時25分

HISAKO KAWASAKI-NEWSWEEK JAPAN

<「自分で考えることが大事だ」と説き、読者や書店員、出版業界関係者からの賛辞に事欠かない本書だが、社会の複雑さを実感するために不可欠なはずの取材という行為はない>

今回のダメ本

Ishido200923_Takeda.jpgわかりやすさの罪
 武田砂鉄[著]
 朝日新聞出版(2020年7月)

ライターとは何か。私のライター観はこの本を読みながら、随分と揺さぶられた。タイトルとは真逆に著者の主張はとてもわかりやすい。政治的なスタンスはわかりやすく反安倍晋三政権で、わかりやすく右派の主張に疑義を唱え、わかりやすく「自分で考えることが大事だ」と書く。時事的な事象に対して、自分の頭で思考し、そのプロセスごと掲載するという姿勢は、今の何かにつけわかりやすい二項対立で選択を迫られるメディア環境ではとても大事だし、その点について私も同意することが多い。本書が世の中に出ていく意義は十分にある。

何より本書は読者や書店員、出版業界関係者からの賛辞に事欠かない。独自にマーケットを切り開き、ファンを抱えていることも素晴らしいことだ。

そこで問いは冒頭に戻る。本書は、「ライター」を名乗る武田砂鉄によるものだが、不思議なほど取材という行為がない。現場取材の中で、葛藤するというページもあまりにも少ない。「あいちトリエンナーレ2019」に行ったというくだりはあるが、それも「雑多な感情」を排したと河村たかし名古屋市長を批判して終わる。ならば河村へ取材を申し込んでみよう、関係者に話を聞いてみようということはしない。元となった雑誌連載の性質上、そうなったと言えば「納得」できるのだが......。

私のようなライターにとって、社会の複雑さや「わかりにくさ」を実感する場は、取材しかない。自分の周囲にはいない人間に会う「取材」という行為にこそ、「わかりにくさ」を肌で感じる瞬間がある。

取材は取材者が自分の体を使って、現場や人を視(み)にいき、耳をそばだてて声を聞き、歩きながら思考する行為だ。日本の右派、自粛警察活動にのめり込む若者、本誌で取り組んだ新宿・歌舞伎町のホストと行政、公衆衛生の専門家......。私は取材を通し、徹底的に事実を集め、あまりにもわかりにくい「分断の向こう側」を知ろうとした。

「わかりやすさの罠」に陥らないために、取材という方法を採ったと言えるだろう。世界中のライターがやってきたように、無駄を重ねた。たった一言を聞くために外で何時間も待ったり、「やっぱり取材は遠慮したい」という相手を繰り返し説得したり......。こうした事実を集める無駄な時間と取材が、私を「わかりやすさ」の誘惑から救ってくれた。

プロフィール

石戸 諭

(いしど・さとる)
記者/ノンフィクションライター。1984年生まれ、東京都出身。立命館大学卒業後、毎日新聞などを経て2018 年に独立。本誌の特集「百田尚樹現象」で2020年の「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞」を、月刊文藝春秋掲載の「『自粛警察』の正体──小市民が弾圧者に変わるとき」で2021年のPEPジャーナリズム大賞受賞。著書に『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)、『ルポ 百田尚樹現象――愛国ポピュリズムの現在地』(小学館)、『ニュースの未来』 (光文社新書)など

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

アングル:ドローン大量投入に活路、ロシアの攻勢に耐

ビジネス

米国株式市場=S&P・ナスダックほぼ変わらず、トラ

ワールド

トランプ氏、ニューズ・コープやWSJ記者らを提訴 

ビジネス

IMF、世界経済見通し下振れリスク優勢 貿易摩擦が
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:AIの6原則
特集:AIの6原則
2025年7月22日号(7/15発売)

加速度的に普及する人工知能に見えた「限界」。仕事・学習で最適化する6つのルールとは?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    その首輪に書かれていた「8文字」に、誰もが言葉を失った
  • 2
    「細身パンツ」はもう古い...メンズファッションは「ゆったり系」がトレンドに
  • 3
    「想像を絶する」現場から救出された164匹のシュナウザーたち
  • 4
    頭はどこへ...? 子グマを襲った「あまりの不運」が…
  • 5
    ロシアの労働人口減少問題は、「お手上げ状態」と人…
  • 6
    日本より危険な中国の不動産バブル崩壊...目先の成長…
  • 7
    「二次制裁」措置により「ロシアと取引継続なら大打…
  • 8
    「どの面下げて...?」ディズニーランドで遊ぶバンス…
  • 9
    「異常な出生率...」先進国なのになぜ? イスラエル…
  • 10
    アフリカ出身のフランス人歌手「アヤ・ナカムラ」が…
  • 1
    その首輪に書かれていた「8文字」に、誰もが言葉を失った
  • 2
    頭はどこへ...? 子グマを襲った「あまりの不運」が話題に
  • 3
    「ベンチプレス信者は損している」...プッシュアップを極めれば、筋トレは「ほぼ完成」する
  • 4
    日本より危険な中国の不動産バブル崩壊...目先の成長…
  • 5
    「お腹が空いていたんだね...」 野良の子ネコの「首…
  • 6
    どの学部の卒業生が「最も稼いでいる」のか? 学位別…
  • 7
    アメリカで「地熱発電革命」が起きている...来年夏に…
  • 8
    千葉県の元市長、「年収3倍」等に惹かれ、国政に打っ…
  • 9
    ネグレクトされ再び施設へ戻された14歳のチワワ、最…
  • 10
    「二度とやるな!」イタリア旅行中の米女性の「パス…
  • 1
    その首輪に書かれていた「8文字」に、誰もが言葉を失った
  • 2
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 3
    頭はどこへ...? 子グマを襲った「あまりの不運」が話題に
  • 4
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測…
  • 5
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事…
  • 6
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 7
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 8
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 9
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 10
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story