コラム

「アラビアのロレンス」より中東で活躍したジャック・フィルビーと、スパイ小説の巨匠ジョン・ル・カレをつなぐ線

2020年12月25日(金)17時15分

英国から離れ、後のサウジ初代国王の顧問となった父ジャック

さて、中東ともイスラームとも関係ない話を書いたが、ここからが本題である。

キム・フィルビーがインドで生まれたのは上に述べたが、それは、彼の父親であるジャック・フィルビー(ジャックは通称、本名はハリー・セントジョン〔シンジョン〕・フィルビー)が植民地官僚としてインドに赴任していたからである。

父ジャックも実は1885年にスリランカで生まれ、ウェストミンスター校、ケンブリッジ大学で学んでいる。ケンブリッジでは有名なイラン研究者、エドワード・G・ブラウンのもとでペルシア語等を学び、その後、英国の植民地省に入り、イラクの首都バグダード等に赴任した。

ちなみに、息子のケースと同様、当時の英国のエリート植民地官僚はほとんどが名門パブリック・スクールからオックスフォード・ケンブリッジのコースを辿っており(しかも場合によってはフリーメーソンでもあった)、こうした学閥・人間関係が、ある種、秘密結社的に機能しており、就職や役所等の人事に影響を及ぼしていたといわれている。

20世紀はじめの時代、英国は、オスマン帝国に対するアラブ諸国の反乱を組織しており、彼もその工作の一端に従事しており、アラブ圏を広く回っていた。

当時の英国の中東政策といえば、アラブ人やユダヤ人に矛盾する約束をした、悪名高い三枚舌政策(バルフォア宣言、フセイン・マクマホン書簡、サイクス・ピコ協定)が知られているが、ジャック・フィルビーたちもそれに否応なく巻き込まれていたのである。

しかし、当時の英国は同時に優れた専門家・植民地官僚を数多く輩出しており、ジャックは彼らとの交流を通じて、アラブ世界、とくにアラビア半島やペルシア湾情勢について学んでいった。クウェートやアラビア半島についていくつかの著作を残したハロルド・ディクソンや「砂漠の女王」とも称されたガートルード・ベルなどがそうだ。

とくに、ベルは、年下のジャックをかわいがり、姉が弟に教えるように、アラブ諸国のさまざまな情報やその入手法について教えていた。そして、ジャックはベルに敬意を示した。のちに、ジャックは、サウジアラビアの大砂漠ルブゥルハーリーを横断する大冒険を行うが、これは、ガートルード・ベルのアラビア半島横断に触発されたものといえるだろう。

しかし、英国の対中東政策に不満をもったジャックは英国政府から離れ、当時、急速に領土と影響力を拡大していたサウード家のアブドゥルアジーズ(のちサウジアラビアの初代国王)の顧問となり、ムスリムに改宗している。

実際、彼は1910年代からアブドゥルアジーズと接触、その能力を高く評価し、アラブの統一を成し遂げられるのは彼だと信じるようになっていた。このことも、彼が、ハーシム家(現ヨルダン王室)を支持する英国政府を見限る主たる原因となった。

のちの歴史が語るとおり、結果的にはジャックの主張が正しいことが証明されたわけだ(少なくともハーシム家よりもサウード家により大きな力があるという点では)。

プロフィール

保坂修司

日本エネルギー経済研究所中東研究センター研究顧問。日本中東学会会長。
慶應義塾大学大学院修士課程修了(東洋史専攻)。在クウェート日本大使館・在サウジアラビア日本大使館専門調査員、中東調査会研究員、近畿大学教授、日本エネルギー経済研究所理事・中東研究センター長等を経て、現職。早稲田大学客員上級研究員を兼任。専門はペルシア湾岸地域近現代史、中東メディア論。主な著書に『乞食とイスラーム』(筑摩書房)、『新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦』(朝日新聞出版)、『イラク戦争と変貌する中東世界』『サイバー・イスラーム――越境する公共圏』(いずれも山川出版社)、『サウジアラビア――変わりゆく石油王国』『ジハード主義――アルカイダからイスラーム国へ』(いずれも岩波書店)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

中国国防相、「弱肉強食」による分断回避へ世界的な結

ビジネス

首都圏マンション、8月発売戸数78%増 価格2カ月

ワールド

米FRBのSRF、今月末に市場安定の役割果たせるか

ワールド

米政権、政治暴力やヘイトスピーチ規制の大統領令準備
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本の小説36
特集:世界が尊敬する日本の小説36
2025年9月16日/2025年9月23日号(9/ 9発売)

優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「日本を見習え!」米セブンイレブンが刷新を発表、日本では定番商品「天国のようなアレ」を販売へ
  • 2
    燃え上がる「ロシア最大級の製油所」...ウクライナ軍、夜間に大規模ドローン攻撃 国境から約1300キロ
  • 3
    中国は「アメリカなしでも繁栄できる」と豪語するが...最新経済統計が示す、中国の「虚勢」の実態
  • 4
    1年で1000万人が死亡の可能性...迫る「スーパーバグ…
  • 5
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 6
    【クイズ】世界で最も「リラックスできる都市」が発…
  • 7
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 8
    中国山東省の住民が、「軍のミサイルが謎の物体を撃…
  • 9
    中国経済をむしばむ「内巻」現象とは?
  • 10
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 3
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサイルが命中、米政府「機密扱い」の衝撃映像が公開に
  • 4
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 5
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 6
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 7
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 8
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 9
    「なんて無駄」「空飛ぶ宮殿...」パリス・ヒルトン、…
  • 10
    観光客によるヒグマへの餌付けで凶暴化...74歳女性が…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 6
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 7
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 8
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれ…
  • 9
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 10
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story