コラム

「アラビアのロレンス」より中東で活躍したジャック・フィルビーと、スパイ小説の巨匠ジョン・ル・カレをつなぐ線

2020年12月25日(金)17時15分

俳優のゲイリー・オールドマン(左)らと撮影に応じるジョン・ル・カレ(中央、2011年) Suzanne Plunkett-File Photo-REUTERS

<ル・カレの小説には、実在した英ソの二重スパイ、キム・フィルビーからのインスピレーションがみられた。だが、話はそこで終わらない。日本で知る人は少ないが、20世紀初頭の中東にはある英国人がおり、サウジが石油王国になるきっかけもその人物だったと言えるかもしれない>

12月12日、英国の小説家、ジョン・ル・カレが亡くなった。89歳だった。個人的には熱烈なファンというわけではないが、自宅の書棚にも『寒い国から帰ってきたスパイ』『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』『スクールボーイ閣下』など何冊も文庫本があった。どれも学生時代に読んだものだ。

ル・カレの本のすぐそばにグレアム・グリーンとかブライアン・フリーマントルなど英国作家が並んでいるところをみると、何となく当時の読書傾向がうかがえる。

いうまでもないが、3人ともスパイ小説の名人であり、しかも、彼らの小説で重要な役回りを果たす登場人物の多くは、イアン・フレミングのジェームズ・ボンドやトム・クランシーのジャック・ライアンのような超人的なスパイと異なり、中年や初老の地味で、さえない連中である。ル・カレのジョージ・スマイリー、グリーンのモーリス・カースル、そしてフリーマントルのチャーリー・マフィン、しかりだ。

3人の英国の著名な小説家に共通するのは、とくに彼らのスパイ小説のなかに、多かれ少なかれ、実在する英国の諜報機関で対外諜報活動を統括するMI6の幹部だったキム・フィルビーから得たインスピレーションの跡がうかがえることだ。

キム・フィルビーは1912年、インドで生まれ、名門パブリック・スクールのウェストミンスター校を経てケンブリッジ大学を卒業した。大学時代にすでに共産主義に傾倒し、ソ連の諜報機関にスパイとしてスカウトされ、ジャーナリストを経験したのち、MI6に入っている。

つまり、フィルビーは英国のスパイであると同時に、ソ連のスパイでもあった。いわゆる二重スパイ、ル・カレの使った用語では「もぐら」である。

当時、ケンブリッジやオックスフォードなど英国の名門大学では共産主義の影響が顕著で、彼らの多くがのちに政府やジャーナリズムなどで主要なポジションを得て、ときにはスパイとしてソ連に情報を提供していた。

フィルビーは、同窓で、外交官のドナルド・マクリーンやガイ・バージェス、美術史家のアンソニー・ブラントらとともに「ケンブリッジ・ファイブ」と呼ばれた。

フィルビーは何度かソ連のスパイではないかと疑われたが、1963年に英国を逃亡し、ソ連に亡命した。ソ連ではKGBで働き、1970年には名誉称号勲章、1980年にはレーニン勲章を授与された。

1988年5月11日、フィルビーはモスクワで亡くなった。キム・フィルビーが忠誠を誓ったソ連は、すでにアフガニスタンへの軍事介入などで屋台骨がガタガタになっており、彼が死んだ数日後に、尾羽うちからしてそのアフガニスタンから撤退を開始した。ソ連の崩壊はその2年半後である。

プロフィール

保坂修司

日本エネルギー経済研究所中東研究センター研究顧問。日本中東学会会長。
慶應義塾大学大学院修士課程修了(東洋史専攻)。在クウェート日本大使館・在サウジアラビア日本大使館専門調査員、中東調査会研究員、近畿大学教授、日本エネルギー経済研究所理事・中東研究センター長等を経て、現職。早稲田大学客員上級研究員を兼任。専門はペルシア湾岸地域近現代史、中東メディア論。主な著書に『乞食とイスラーム』(筑摩書房)、『新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦』(朝日新聞出版)、『イラク戦争と変貌する中東世界』『サイバー・イスラーム――越境する公共圏』(いずれも山川出版社)、『サウジアラビア――変わりゆく石油王国』『ジハード主義――アルカイダからイスラーム国へ』(いずれも岩波書店)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

エプスタイン文書、米司法省が30日以内に公開へ

ワールド

ロシア、米国との接触継続 ウクライナ巡る新たな進展

ビジネス

FRB、明確な反対意見ある中で利下げ決定=10月F

ビジネス

米労働省、10月雇用統計発表取りやめ 11月分は1
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界も「老害」戦争
特集:世界も「老害」戦争
2025年11月25日号(11/18発売)

アメリカもヨーロッパも高齢化が進み、未来を担う若者が「犠牲」に

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 2
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR動画撮影で「大失態」、遺跡を破壊する「衝撃映像」にSNS震撼
  • 3
    「まじかよ...」母親にヘアカットを頼んだ25歳女性、完成した「信じられない」大失敗ヘアにSNS爆笑
  • 4
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」…
  • 5
    ロシアはすでに戦争準備段階――ポーランド軍トップが…
  • 6
    「これは侮辱だ」ディズニー、生成AI使用の「衝撃宣…
  • 7
    衛星画像が捉えた中国の「侵攻部隊」
  • 8
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 9
    ホワイトカラー志望への偏りが人手不足をより深刻化…
  • 10
    【クイズ】中国からの融資を「最も多く」受けている…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR動画撮影で「大失態」、遺跡を破壊する「衝撃映像」にSNS震撼
  • 4
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 5
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 6
    「死ぬかと思った...」寿司を喉につまらせた女性を前…
  • 7
    【銘柄】ソニーグループとソニーFG...分離上場で生ま…
  • 8
    【写真・動画】「全身が脳」の生物の神経系とその生態
  • 9
    筋肉の正体は「ホルモン」だった...テストステロン濃…
  • 10
    「ゲームそのまま...」実写版『ゼルダの伝説』の撮影…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 3
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 4
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 5
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」は…
  • 6
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 7
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 8
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 9
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 10
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story