2011年4月26日、日本外国特派員協会で記者会見する五百旗頭真・東日本大震災復興構想会議議長 REUTERS/Issei Kato
2024年3月6日に逝去された五百旗頭真先生は、政治外交史を専門とする神戸大学教授として、さらに東日本大震災復興構想会議議長、防衛大学校長、熊本県立大学と兵庫県立大学の理事長、宮内庁参与などとして、学問の世界にとどまらず、社会的にも広く活躍された。
長年親交があった蒲島郁夫氏(前熊本県知事)、國分良成氏(前防衛大学校長、アジア調査会会長)、御厨貴氏(東京大学名誉教授)とともに、五百旗頭先生の仕事を振り返る。司会は岸俊光氏(アジア調査会事務局長)。
※第1回:五百旗頭真先生との出会いと友情、そして学問を振り返る...「自分にしか書けない本を3つ書きたい」から続く
岸 五百旗頭先生はまた現実政治との関わりをお持ちでしたが、政治と学者の関係というのは難しいところがありますし、これまで寄せられている追悼文にもなかなか出てきていない部分です。特に、2011年3月の東日本大震災の復興構想会議のときは本当に大変だったことと思います。
また、國分先生がおっしゃった「日中協商」のようなことを言えば、反発は避けられない。お三方もさまざまな審議会や有識者会議で政治との関わりをお持ちですし、蒲島先生は政治の道に進まれたわけですが、このあたりの五百旗頭先生のお仕事をどんなふうにご覧になったでしょうか。
御厨 私が一番深くおつき合いしたのは復興構想会議です。五百旗頭先生は、議長就任の打診があってからごく短期間で、よくぞ引き受ける決断をなさったと思います。
後に山崎正和先生が「五百旗頭さんは新しい職に就くときには相談に来た。防大学校長のときも来たが、東日本大震災のときには来なかった。よっぽど自分自身の仕事として引き受ける自信があったんだろうね」と言っていたのが印象に残っています。
復興構想会議が大変だったのは、極端な政治主導を標榜する民主党政権下で、官僚のサポートがまったくないところからスタートしたこと。五百旗頭さんが議長を引き受けた時点で、会議のメンバーが既に決まっていて、リストを見た瞬間に五百旗頭さんは、これではまとめようがないと思って、議長代理として私を、検討部会長として飯尾潤君を入れた。
最初から与党はこの3人だけで、あとは全員野党ですよ。彼らはとにかく騒ぐだけ騒いで、こういう会議でここまで無礼な態度をとるかと思うくらいすごかったですね。
何回目かの会議で「前回のまとめ」を出そうとすると、始まってすぐに「動議」と言う人がいる。五百旗頭さんは「何?」とか言いながらもちゃんと聞く。で、「今のが動議なの? そう? あんまり動議のようでもなかったけど」とか言ってまたみんなを怒らせる(笑)。
でも五百旗頭さんはとにかく全部聞きました。あれは偉い。話を途中で切ったりなんかしてワアワア言う役は議長代理である私が引き取ったので、彼は怒らずに最後まで全部聞いた。いや、少なくとも聞いたふりはした。そしてすべてを吸い取っていきました。
最後の提言を書くとき、五百旗頭さんはご自身で書きたかったんです。ただ、「提言は自分たちが書く」と最初から主張していた一派がいて、しかもその中心人物が、最初の顔合わせのときに「自分は本当に悔しい。今回のこの災害は文明災害だ。こんな会議はつぶしたほうがいい」と言って机をドンドン叩きながらワアワア泣いた人でした。
そのときは一体何事が起きたのかと皆驚きました。その会議が終わって一番腹を立てていたのは五百旗頭さんでした。「会議に入ってきて壊すようなことをやるのは許せない」と。その彼が「自分が起草する」と言い募り、それがダメとなったら「じゃあ、お手並み拝見」と言うわけです。
結局、提言は議長代理である僕が書くことになった。つまり、書いたものに「ダメ」と言ってきたときに五百旗頭さんに出てもらうことにしようと。最終的には僕の書いたものを修正する形になったんですけれどね。
怒号が飛び交うような会議が続いても、五百旗頭さんは「大丈夫だ。自分は耐えられる」と言っていました。けれども、あの温厚な五百旗頭さんでさえ悔しくて、横須賀の防衛大学校の官舎に帰ってから、真夜中にグラウンドをぐるぐると走らずにいられなかった。有名な話ですね。実に大変でした。