御厨 岸さんの依頼で毎日新聞に連載したものを『大災害の時代──未来の国難に備えて』(毎日新聞出版、2016)という災害学の書にまとめましたね。五百旗頭さんは、こうした防災の観点に加えて、被災した人たちのところを回って話を聞くという、震災のオーラル・ヒストリーにも本当に力を入れていました。
阪神・淡路でご自身が被災したばかりか教え子を震災で亡くし、生きるも死ぬも紙一重の差。亡くなった人に代わって震災の正確な記録を永遠に残すこと、それが歴史家たる自分の任務と思っていたのだと思います。
知事・市長、警察・消防・自衛隊、現地の町役場等々を回って話を聞いていきました。財政課、まちづくり課の人たちそれぞれを呼んで行なうインタビューには僕も同行しました。
すると、間違いなく元気がいいのはまちづくり課です。新しいまちができるということで張り切っている。彼らの話を聞いていると、まちの未来は開けているように感じられる。逆に全然元気がないのが雇用課です。誘致していた工場がどこも来なくなる。人も来ない。「この土地に未来はない」と言うわけですよ。この2つが同じ庁舎の中で働いている。
五百旗頭さんはそれをそういう形でみんなに見せてくれたんです。「今日はどうだった」と聞かれて、僕が「たいへん勉強になりました」と言ったら、「そう、現場を見ないとわからない。現場を見ると、1つの役所と言っても全然違う状況にあることがわかるだろう」。これが彼の教えでした。
岸 五百旗頭先生は國分先生の前の防衛大学校の学校長ですね。五百旗頭先生が8代で國分先生は9代。これは政治家のブレーンとは違いますが、普通の学校の学長ともちょっと違うところがありますよね。
國分 当初、五百旗頭先生は自分にはできないとなかなか引き受けなかったんですよね。小泉純一郎首相が個人的に説得しています。「自分の一番好きな著作は五百旗頭真の占領期の本だ。それで頼んでいるのにどうして引き受けないんだ」と。
小泉さんは「日本が戦後元気になる」という、そこが好きだったのでしょう。五百旗頭先生が結局お引き受けになったのは、恩師の猪木正道先生が3代校長を務めておられたこともあったのだと思います。
2006年8月から12年3月までの5年8カ月間で、防大改革としていろいろなことに手を付けました。
例えば防大の精神的支柱である槇智雄初代校長の記念室を開設し、防大は文部科学省管轄ではないので科学研究費助成事業(科研費)から外れていたのですが、それを取れるように尽力し、文系の地域研究を増やす、国際関係を充実させる、総合安全保障研究科を博士課程に広げて学術的幹部を養成する、防大生の定員を増員する、災害時に防大生は周辺住民を救助するなど。また、五百旗頭先生みずから「日本外交史」の講義を行ない、「学校長ゼミ」も続けていました。
2008年10月、田母神俊雄航空幕僚長のいわゆる「田母神論文問題」が起きます。五百旗頭先生は、日本が戦争をしたのはルーズベルトや蔣介石の陰謀による、という田母神氏の歴史観を、新聞の定期コラムなどで徹底的に叩きました。
その結果、田母神氏の世代前後の一部の卒業生たちが反発し、それに乗じた右翼が罷免を叫んだり、街宣車が学校の門に飛び込んできて、「五百旗頭を出せ」と叫んだりしました。防大や官舎、関西の自宅も襲撃を受けたんです。
2011年に東日本大震災が起きて復興構想会議の議長を引き受けてからは、そちらのほうの仕事が圧倒的に忙しく、夜は官舎に帰っていましたが、学校にはほとんどいないようなものでした。その間、学校の運営は副校長以下で対応していたんですね。
防大の仕事ができないことで、五百旗頭批判も増えました。もちろん大事な基本の仕事はなさっていましたし、防大改革も実現されましたが、防大時代の最後のほうは苦労されたと思います。
防大は65歳で定年ですが、3年間は延長できるので、五百旗頭先生は68の最後まで務められました。2011年の2月だと記憶していますが、一緒に行った中国出張中のバスの中で、私が「今期で慶應大法学部長を退任して研究者に戻るつもりです」と言うと、「國分さん、防大に来ない?」と言われました。そして東日本大震災の数週間後、防衛省から防大学校長就任打診の連絡がありました。
こうしてずっとおつき合いは続いていたのですが、防大学校長の要請に加えて負担をかけたら悪いというお気持ちだったのでしょう、復興構想会議の先ほどのような話を私はほとんど聞いていません。全部ご自分で引き受けられたのだと思います。私は国があっての防大ですから、復旧・復興に五百旗頭先生が力を注いでおられることに賛同していましたが。