全2006席がぶどうの段々畑状にステージ(太陽)を向いているため、音楽の響きは太陽の光のようにすべての席に降り注ぐ。音響的にも視覚的にも演奏者と聴衆が一体となって互いに臨場感あふれる音楽体験を共有することができる形式。撮影:池上直哉 協力:サントリーホール
『アステイオン』創刊と同じ年に誕生したサントリーホール。1986年とはどのような時代背景だったのか。音楽評論家の片山杜秀・慶應義塾大学教授と舞踊研究者で文芸評論家の三浦雅士氏にアステイオン編集委員長の田所昌幸・国際大学特任教授が聞く。『アステイオン』100号より「1986年から振り返る──サントリーホールと『アステイオン』の時代」を転載。
田所 『アステイオン』が100号を迎えました。本誌が創刊された1986年は、政治的には、与党の中曽根自民党はあらゆる利害を集約するキャッチオールパーティー(包括政党)になったと言われる一方で、野党第一党は日本社会党でした。
バブル時代の始まりで、虚ろな繁栄とも言えるし、他方で戦後日本で一番元気の良かった時代と言えるのかもしれません。文化面でも、企業によるメセナ活動のさまざまな試みが始まります。朝日放送による大阪のザ・シンフォニーホール開館は82年、日本初のクラシック音楽専用コンサートホールの誕生です。
サントリー文化財団を佐治敬三が創設したのは79年、そして今日お集まりいただいたサントリーホールの開館は『アステイオン』創刊と同じ86年。また、セゾングループのセゾン文化財団設立、セゾン劇場オープンは87年です。
86年当時私は30歳で、まさか自分がその後『アステイオン』の編集に関わるようになるとはもちろん思ってもいませんでした。本日ご登壇の三浦雅士さんは10歳年長で団塊の世代、片山杜秀さんは60年代生まれで私よりは少し下ですね。
『アステイオン』出発の時代をご存じない世代の読者へのメッセージの意味も込めて、時代背景からお話を始めていただけますか。
三浦 86年初めまで2年近くニューヨークにいたので、実は僕には日本の80年代があまりピンときません。しかも、向こうで「人類には舞踊が決定的に重要だったのだ」と確信して帰国したら、なんと東京の真ん中にはオペラハウスがなく、上演する場所がない。
欧州を見れば、パリ、ロンドン、ウィーン、ベルリンなど、都市計画で都市の中心に必ずオペラハウスに類するものがつくられている。翻って日本は、明治から大正にかけては日比谷公会堂があり帝国劇場があったのに、そういうことを考える官僚や政治家がもはやいなくなってしまった。
些細なことに思えるかもしれませんが、とんでもない。劇場の座席は座標幾何学の身体化であり、1人1枚ずつのチケットは民主主義の身体化である。近代の本質に関わっている。舞台芸術において身体は舞台の上だけで問題になっているのではない、むしろ客席において問題になっているのだ。民主主義と劇場は双子なんだ。そういう奥行を捉える感性が失われてしまっているということです。
ですから、サントリーがサントリーホールをつくったことは画期的で立派なことだと思います。その影響を受けて自治体も本格的なコンサートホールという視点を持つようになり、これからもそれは続いていってほしいと思う。しかし、それがオペラハウスではないことが、僕にとっては一番大きな問題でした。バレエにはオペラハウスが不可欠なんです。
日本政府は劇場事業について大所高所から見ることをしません。見る機関もない。いや、東京文化会館があるからいいではないかということかもしれませんが、世界に誇るべき建築空間だけど、オペラハウスではない。それも補修工事のために近々閉めると聞きました。でも、誰も文句を言わない。
「1つの都市にはこの規模のオペラハウスが必要だ」と配慮する人が国のトップにいないことが、持続的な問題としてあると思います。本当の外交には劇場が必要なんです。
私が「舞踊が大事」というのは、それが最も始原的な芸術であり、直接的に人の生き死にに関わる表現であって、母子関係による人格主体のでき方と直接的に関わる芸術だからです。そういう舞踊が上演される機会、見る機会は多いほうがいいということです。こういった問題にどのように向き合うかを率先して考えていくのが雑誌の役割だとすれば、86年はその原点の年と言えるのではないかと思います。
vol.101
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