田所 バブルの頃、地方にまでホールという箱物をたくさん建てたのはいいけれど、肝心の演奏家がいないと言われました。そうしてできた日本のホールで実際に音楽や舞踊の公演をしたり、関わってきた人たちについては、どのように評価しておられますか。
片山 ホールの発展史と中身の発展史は必ずしも並行しないものですが、「ホールがないと困る」という状況があってホールができていく事情はありますよね。日本のホール環境について言えば、80~90年代に、大小のクラシック音楽専用ホールと言えるものが大阪にも東京にも増えていきました。
これは、三浦さんが先ほどご指摘されたように国家が主導して大所高所から進めたことではありません。サントリーホールは佐治敬三、オーチャードホールは五島昇、ザ・シンフォニーホールは朝日放送で、紀尾井ホールは旧新日鉄。
「首都や大阪の周囲にサロンにいるような場所がないと文化人として恥ずかしい」ということで「文化国家」を目指して、教養の高い民間の経営者が頑張った。
外国人の演奏家を呼んででも、サントリーホールのようなところに誰でもいつでも足を運べることが文化国家であると信じる、旧制高校的教育の薫陶を受けた人たちの思いと、戦後の豊かさに憧れる人たちの思いとが結びついて実現していった夢の結晶です。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン期」から「バブル期」、そしてバブルが崩壊してもまだしばらく余裕の残っていた時代に、お金だけではなく大正から昭和の精神的な蓄えも使って実現したのだと思います。
オペラ座の話がありましたが、日本では「文化国家になるためにオペラ座が必要だ」と、片山哲内閣のもとで戦後の混乱期の1947から48年にかけて国立劇場構想が検討されています。
貧しいなかでもオペラやバレエの公演が日本じゅうで盛んに行われた時代で、当時の藤原歌劇団は、歌手が揃っているわけではないからダブルキャストが満足にはゆかないなかで、ワーグナーの歌劇やイタリアオペラを何日も連続公演した。お客さんもすごく入っていたそうですね。舞踊の方もその頃は「プロメテの火」などのモダンダンスや創作バレエの大作が生まれて、また東京バレエ団が帝国劇場で「白鳥の湖」の長期興行をやったでしょう。
三浦 舞踊でも音楽でも、どんな機会、どんな場所をも利用して創作しようという人たちは、いつの時代にもいます。自分たちで実現したい、新しい領域を切り開きたい、という熱はすごくて、そういう動きは必ず出てきます。
でも、日本人はどうなるのが一番幸福なのか、日本の文化を全体的に考える人がいない。問題は、政府がそれに呼応しないということだけではありません。
実際に東京23区が担ってみたら、小型の多目的ホールがぽこぽこできてしまう結果になってしまった。室内楽、オーケストラ、オペラ、バレエ、日本舞踊、モダンダンスその他、目的にある程度特化した多様な劇場があったほうがいいのだけれど、そうはならなかった。
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