岡本 漢文史料を見ていると、「遊牧は野蛮」と見下しているところがあり、また逆にモンゴルの遊牧民側の文献からは「農耕をやっているやつらはのろまで全然駄目」と見下していることは読み取れるのですが、やはりおっしゃったように、本や文献だけでは分からないことが多いと感じています。
モンゴル人の立場・目線からは、中華世界はどのように見えているでしょうか。
小長谷 まず、漢字の文化の中に羊という要素がいっぱい出てきますよね。羊なくして躾もできず、羊なくして儀礼なしです。ですから肝心なところに牧畜文化は入っていると思います。
それこそ梅棹先生がモンゴルで調査をされていますが、遊牧は基本的に軍事です。平時においては軍事だと思われていなくとも、軍事集団です。土地や領地支配ではなく、属人支配でグループで全部統括していく。そんな人間集団や社会組織についても梅棹先生は注目していました。
万里の長城はモンゴル人からすれば、「造らせている」という感覚で、中華世界においても最初から軍事組織として入り込んでいて、必ずしも敵対していなかったでしょう。
岡本 では、遊牧の本質とはどういうところにあるのでしょうか。
小長谷 遊牧の本質は牧畜を家畜ファーストで実践し、どこに何があるのか。つまり資源にアクセスするという意味での情報産業ということです。軍事は戦わずして勝つのが一番であるため、やはり情報産業です。遊牧はそういう意味で、コンピューター以前のITなのです。
自然への依存度が大きく、自分は探しに行くだけで全く何もしないところが遊牧が本当にクールな点です(笑)。
農耕世界をばかにしているというよりも、「やっておいてください。取りに行きますので」というスタンスですよね。そのための平和の維持、ピースキーピングオペレーション(PKO)は自分たちが担当します、と。
岡本 私の指導教官はモンゴル帝国の専門家の杉山正明先生です。「モンゴルはハイブリッドだった」「とにかく何かの組合せで適材適所でやっている」とよくおっしゃっていました。それを聞きながら、中国史に全部つながると、私たち教え子は思っていました。
今の中国がかなり典型的ですが、国際社会では国民国家ファーストを前提にロジックを組み立てています。しかしそれだけでよいのか。現代文明を考え直すときに、遊牧の生活文化が一体どのようなインスピレーションを与えてくれるのかということが、中国を考える上でも一つのポイントになるのではないでしょうか。
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