コラム

注射するだけで避妊効果、手術は不要──ネコの遺伝子治療成功の意義と問題点

2023年06月13日(火)18時20分

ネコに遺伝子治療による不妊処置を施すことには、①ノネコの狩りの対象となる野生動物を守る、②飼い猫を手術リスクから守る、③地域猫を殺処分から守る、という3つの保護効果が期待されます。

①については、研究チームは広く展開するため、FDA(米食品医薬品局)からの承認を得られるように、今後、大規模な試験を行うと言います。早々に承認されれば、世界初の動物用の遺伝子治療法となります。

また、ペパン博士は「ネコだけでなく野生化したイエイヌ(野良犬、野犬)に対しての利用を検証していく」と話します。世界では、今でも年間5万人以上が狂犬病を発症しています。また、日本ではイノシシやシカなどが増えすぎて、生活をおびやかす地域もあります。遺伝子治療による避妊がネコ以外の動物にも応用できれば、野生動物の保護だけでなくヒトと動物との共存も進むかもしれません。

もっとも、今回のように遺伝子を導入したウイルスを注射するためには、動物を一匹ずつ捕まえなければなりません。とくにノネコはなかなか捕まらず、罠も巧みに回避してしまうため、まずは効率的なネコの捕獲方法を考案しなければならないとの指摘もあります。

②については、日本ではネコの飼い主は「繁殖を考えていなければ生後6ヶ月頃が避妊去勢手術のタイミング」と、かかりつけの獣医師に勧められることが多いでしょう。いずれも全身麻酔をかける手術で、とくにメスはお腹を切って(※)卵巣を摘出するため、ネコの身体への負担が大きく、費用もかかります。
※最近は腹腔鏡下で手術を行うケースも増えてきました。

飼い猫の場合は、避妊去勢手術は不妊処置というよりも、発情抑制をして鳴き声や尿スプレーを防ぐ意味合いが強いでしょう。注射1本で効果が長期的に継続するならば、遺伝子治療を選択したいと思う飼い主は多いかもしれません。

③については、地域猫を殺処分から守るためには、個体数の抑制が必要となります。現在、行われているTNR(トラップ・ニューター・リターン;捕獲して避妊去勢手術して元の場所に戻す)は効果的ですが、地域猫の把握にコミュニティ作りが不可欠で、協力するボランティアや獣医師の負担も大きいという問題があります。注射で避妊処置が済むならば、高度な技能や麻酔装置はいらず、費用や時間が節約できるでしょう。

プロフィール

茜 灯里

作家・科学ジャーナリスト。青山学院大学客員准教授。博士(理学)・獣医師。東京大学理学部地球惑星物理学科、同農学部獣医学専修卒業、東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了。朝日新聞記者、大学教員などを経て第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。小説に『馬疫』(2021 年、光文社)、ノンフィクションに『地球にじいろ図鑑』(2023年、化学同人)、ニューズウィーク日本版ウェブの本連載をまとめた『ビジネス教養としての最新科学トピックス』(2023年、集英社インターナショナル)がある。分担執筆に『ニュートリノ』(2003 年、東京大学出版会)、『科学ジャーナリストの手法』(2007 年、化学同人)、『AIとSF2』(2024年、早川書房)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

サウジ、イエメン南部の港を空爆 UAE部隊撤収を表

ビジネス

米12月失業率4.6%、11月公式データから横ばい

ビジネス

米10月住宅価格指数、前年比1.7%上昇 伸び13

ワールド

プーチン氏、イラン大統領と電話会談 核計画巡り協議
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ISSUES 2026
特集:ISSUES 2026
2025年12月30日/2026年1月 6日号(12/23発売)

トランプの黄昏/中国AI/米なきアジア安全保障/核使用の現実味......世界の論点とキーパーソン

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「腸が弱ると全身が乱れる」...消化器専門医がすすめる「腸を守る」3つの習慣とは?
  • 2
    ウクライナ水中ドローンが、ロシア潜水艦を爆破...「史上初の攻撃成功」の裏に、戦略的な「事前攻撃」
  • 3
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 4
    「すでに気に入っている」...ジョージアの大臣が来日…
  • 5
    「サイエンス少年ではなかった」 テニス漬けの学生…
  • 6
    マイナ保険証があれば「おくすり手帳は要らない」と…
  • 7
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」と…
  • 8
    世界最大の都市ランキング...1位だった「東京」が3位…
  • 9
    なぜ筋肉を鍛えても速くならないのか?...スピードの…
  • 10
    頭部から「黒い触手のような角」が生えたウサギ、コ…
  • 1
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 2
    ウクライナ水中ドローンが、ロシア潜水艦を爆破...「史上初の攻撃成功」の裏に、戦略的な「事前攻撃」
  • 3
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 4
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指…
  • 5
    中国、インドをWTOに提訴...一体なぜ?
  • 6
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...ど…
  • 7
    マイナ保険証があれば「おくすり手帳は要らない」と…
  • 8
    「腸が弱ると全身が乱れる」...消化器専門医がすすめ…
  • 9
    批評家たちが選ぶ「2025年最高の映画」TOP10...満足…
  • 10
    アベノミクス以降の日本経済は「異常」だった...10年…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 3
    ウクライナ水中ドローンが、ロシア潜水艦を爆破...「史上初の攻撃成功」の裏に、戦略的な「事前攻撃」
  • 4
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 5
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切…
  • 6
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 7
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 8
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 9
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指…
  • 10
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story