コラム

注射するだけで避妊効果、手術は不要──ネコの遺伝子治療成功の意義と問題点

2023年06月13日(火)18時20分

現在、ヒトの女性が薬を使って避妊したいと思った場合は、女性ホルモンのエストロゲン(卵胞ホルモン)とプロゲステロン(黄体ホルモン)を配合した経口避妊薬(ピル)の使用が一般的です。また、動物に対しては、合成黄体ホルモンであるプロリゲストンなどを注射して発情を抑制することで妊娠を防ぐ方法も採られています。

しかし、卵胞ホルモンや黄体ホルモンの受容体は全身にあるため、高血圧などの副作用が起こりやすいという欠点があります。AMHであれば受容体は卵巣や子宮といった女性生殖器にほぼ限定されているため、副作用のリスクも軽減できる可能性があります。

さらに、女性ホルモンを使う治療は、月経周期や発情周期に合わせて継続的に投与しなければなりません。遺伝子技術を用いてしきい値以上のAMHを継続的に分泌させることができれば、1度の処置で長期的に効果を得られる可能性があります。

1度の注射で避妊効果は2年間持続

今回、研究チームは、野生動物の保護のために、AMHはメスネコに不妊をもたらすのかを探ることにしました。

6匹のメスネコに通常よりも多くAMHを分泌させるために、ネコのAMH遺伝子を導入した無害なウイルス(アデノ随伴ウイルス; AAV9)を筋肉注射し、比較のために3匹のメスネコにAAV9のみを注射しました。

AAV9は、導入された遺伝子の「運び屋」として作用します。AAV9がネコ筋細胞に感染すると、持ち込まれたAMH遺伝子は細胞のDNAに入って、継続的にAMHを分泌できるようになります。ペパン博士は、「本来、卵巣だけ産生されるAMHを、筋細胞でも産生できるようにすることで、継続的に通常の約100倍の量が分泌される」と説明します。

9匹のメスネコたちは、注射が終わると毎日4時間ずつオスネコと「お見合い」をしました。

2年にわたる観察の結果、比較のために用意された3匹は全員が妊娠し、正常な出産をしました。一方、人為的にAMH分泌を増量させた6匹では、4匹は交尾を行おうとせず、残りの2匹も交尾は行いましたが妊娠はしませんでした。つまり、1度の注射で避妊効果は少なくとも2年間、持続しました。追跡調査では、一部のネコでは4年以上にわたってAMHの分泌が常に高いレベルを維持していたことが分かりました。また、注射による副作用はいずれのネコにも見られなかったといいます。

プロフィール

茜 灯里

作家・科学ジャーナリスト/博士(理学)・獣医師。東京生まれ。東京大学理学部地球惑星物理学科、同農学部獣医学専修卒業、東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了。朝日新聞記者、大学教員などを経て第 24 回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。小説に『馬疫』(2021 年、光文社)、ノンフィクションに『地球にじいろ図鑑』(2023年、化学同人)、ニューズウィーク日本版ウェブの本連載をまとめた『ビジネス教養としての最新科学トピックス』(2023年、集英社インターナショナル)がある。分担執筆に『ニュートリノ』(2003 年、東京大学出版会)、『科学ジャーナリストの手法』(2007 年、化学同人)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

アングル:フィリピンの「ごみゼロ」宣言、達成は非正

ワールド

イスラエル政府、ガザ停戦合意を正式承認 19日発効

ビジネス

米国株式市場=反発、トランプ氏就任控え 半導体株が

ワールド

ロシア・イラン大統領、戦略条約締結 20年協定で防
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプ新政権ガイド
特集:トランプ新政権ガイド
2025年1月21日号(1/15発売)

1月20日の就任式を目前に「爆弾」を連続投下。トランプ新政権の外交・内政と日本経済への影響は?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼いでいるプロゲーマーが語る「eスポーツのリアル」
  • 2
    「搭乗券を見せてください」飛行機に侵入した「まさかの密航者」をCAが撮影...追い出すまでの攻防にSNS爆笑
  • 3
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べている」のは、どの地域に住む人?
  • 4
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 5
    感染症に強い食事法とは?...食物繊維と腸の関係が明…
  • 6
    フランス、ドイツ、韓国、イギリス......世界の政治…
  • 7
    オレンジの閃光が夜空一面を照らす瞬間...ロシア西部…
  • 8
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者…
  • 9
    「ウクライナに残りたい...」捕虜となった北朝鮮兵が…
  • 10
    強烈な炎を吐くウクライナ「新型ドローン兵器」、ロ…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 3
    睡眠時間60分の差で、脳の老化速度は2倍! カギは「最初の90分」...快眠の「7つのコツ」とは?
  • 4
    メーガン妃のNetflix新番組「ウィズ・ラブ、メーガン…
  • 5
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼い…
  • 6
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲う…
  • 7
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 8
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 9
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 10
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    大腸がんの原因になる食品とは?...がん治療に革命をもたらす可能性も【最新研究】
  • 3
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 4
    夜空を切り裂いた「爆発の閃光」...「ロシア北方艦隊…
  • 5
    インスタント食品が招く「静かな健康危機」...研究が…
  • 6
    TBS日曜劇場が描かなかった坑夫生活...東京ドーム1.3…
  • 7
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分か…
  • 8
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 9
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
  • 10
    「腹の底から笑った!」ママの「アダルト」なクリス…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story