コラム

月面重力下では筋の質が変わる──宇宙マウス実験の恩恵は一般の人にも?

2023年04月25日(火)11時30分

研究チームは、マウスの宇宙飼育ミッションを3回行いました。MARSの設定を1回目は微小重力(マイクロG)および人工地球重力(1G)、2、3回目は月面重力(1/6G)に調整して、それぞれ約1カ月間飼育して得られたマウスのヒラメ筋の量的および質的変化を解析しました。また実際に地球上でも実験して、人工地球重力下と比較しました。

その結果、以下のことが分かりました。

①量的変化を見ると、微小重力下では、地球上や人工地球重力下(1G)と比べて筋重量や筋線維断面積が減少して筋萎縮が見られた。対して月面重力下では、1Gの場合と同程度で筋萎縮は引き起こされていなかった。
②質的変化を見ると、微小重力下で起きている速筋化と比べて、月面重力下ではその程度が低かった。しかし、地球上や人工地球重力下(1G)と比べれば速筋化が生じていた。

つまり、月の重力は筋の量的変化(萎縮)を起こさない働きはありますが、質的変化(速筋化)を抑制するには不十分であることを示唆しています。実際にヒラメ筋の遺伝子発現パターンを次世代シーケンサーで可視化したところ、微小重力下と月面重力下では似たパターンを示しますが、微小重力下でのみ地球上や人工地球重力下と異なる遺伝子発現量が観察される部分もありました。

したがって、ヒラメ筋の筋量と筋線維タイプが維持される重力の境界値(閾値)は異なることが世界で初めて明らかになりました。

創薬につながる? 一般層にも恩恵

今回の研究結果は、月面重力(1/6G)が骨格筋に与える影響の知見を得るものです。将来の月面での活動や、さらに火星(1/3G)での探査や移住に役立つものですが、一般の人は「自分が宇宙飛行士になったり月に移住したりするとは思えないから、関係がない研究だ」と思うかもしれません。

けれど、宇宙空間での筋の変化の研究は、私たちに普遍的な「加齢に伴う筋機能の低下」の仕組みを解明し、予防や改善に貢献することが期待されています。

微小重力の宇宙空間では、1日のふくらはぎの筋肉の減少が寝たきりの人の2日分、高齢者の半年分という速さで進行するといいます。もっとも、その現象が分かってから、宇宙飛行士は毎日十分な運動をして筋機能の低下を防いでいますが、マウスやラットなどのモデル動物は宇宙で運動しないように設定できるので、高齢者に見られる変化を加速して観察することができます。重力環境による遺伝子発現の違いを見ることで、加齢による機能低下に関連する遺伝子を見つけて創薬につなげられる可能性もあります。

宇宙での実験の成果は、目新しいだけでなく、私たちの健康維持にも応用できる意外と実用的なものなのです。

プロフィール

茜 灯里

作家・科学ジャーナリスト。青山学院大学客員准教授。博士(理学)・獣医師。東京大学理学部地球惑星物理学科、同農学部獣医学専修卒業、東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了。朝日新聞記者、大学教員などを経て第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。小説に『馬疫』(2021 年、光文社)、ノンフィクションに『地球にじいろ図鑑』(2023年、化学同人)、ニューズウィーク日本版ウェブの本連載をまとめた『ビジネス教養としての最新科学トピックス』(2023年、集英社インターナショナル)がある。分担執筆に『ニュートリノ』(2003 年、東京大学出版会)、『科学ジャーナリストの手法』(2007 年、化学同人)、『AIとSF2』(2024年、早川書房)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

ノーベル平和賞マチャド氏、授賞式間に合わず 「自由

ワールド

ベネズエラ沖の麻薬船攻撃、米国民の約半数が反対=世

ワールド

韓国大統領、宗教団体と政治家の関係巡り調査指示

ビジネス

エアバス、受注数で6年ぶりボーイング下回る可能性=
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ジョン・レノン暗殺の真実
特集:ジョン・レノン暗殺の真実
2025年12月16日号(12/ 9発売)

45年前、「20世紀のアイコン」に銃弾を浴びせた男が日本人ジャーナリストに刑務所で語った動機とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だから日本では解決が遠い
  • 2
    中国軍機の「レーダー照射」は敵対的と、元イタリア空軍の専門家。NATO軍のプロフェッショナルな対応と大違い
  • 3
    【クイズ】アジアで唯一...「世界の観光都市ランキング」でトップ5に入ったのはどこ?
  • 4
    トランプの面目丸つぶれ...タイ・カンボジアで戦線拡…
  • 5
    中国の著名エコノミストが警告、過度の景気刺激が「…
  • 6
    死者は900人超、被災者は数百万人...アジア各地を襲…
  • 7
    「韓国のアマゾン」クーパン、国民の6割相当の大規模情…
  • 8
    キャサリン妃を睨む「嫉妬の目」の主はメーガン妃...…
  • 9
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 10
    イギリスは「監視」、日本は「記録」...防犯カメラの…
  • 1
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした「信じられない」光景、海外で大きな話題に
  • 2
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価に与える影響と、サンリオ自社株買いの狙い
  • 3
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だから日本では解決が遠い
  • 4
    健康長寿の鍵は「慢性炎症」にある...「免疫の掃除」…
  • 5
    兵士の「戦死」で大儲けする女たち...ロシア社会を揺…
  • 6
    キャサリン妃を睨む「嫉妬の目」の主はメーガン妃...…
  • 7
    ホテルの部屋に残っていた「嫌すぎる行為」の証拠...…
  • 8
    戦争中に青年期を過ごした世代の男性は、終戦時56%…
  • 9
    イスラエル軍幹部が人生を賭けた内部告発...沈黙させ…
  • 10
    【クイズ】アルコール依存症の人の割合が「最も高い…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 4
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 5
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 6
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 7
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 8
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 9
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 10
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story