コラム

ブタからヒトへの心臓移植に見る「異種臓器移植」の可能性

2022年01月25日(火)11時25分

研究が進むにつれ、ブタとヒトの心臓はサイズが近く解剖学的な特徴も似ていること、ブタは多胎で成長が早いために臓器調達が容易であること、移植した際に動物由来ウイルスに感染するリスクが他の動物よりも低いことなどがわかりました。そこで、ブタをヒトへの異種臓器移植に使う研究が進みました。2002年には、イギリスのバイオ企業と米韓の共同研究チームがそれぞれ、遺伝子操作によって人間の体内で拒絶を起こさない臓器移植用のブタを誕生させました。

もっとも、異種臓器移植が抱える安全性の問題は、拒絶反応だけではありません。動物由来のウイルス感染のリスクも考える必要があります。

ブタの臓器には、「ブタ内在性レトロウイルス」が存在しています。内在性レトロウイルスとは、祖先がレトロウイルスに感染し、最終的にそれが宿主の生殖細胞に入り込んで遺伝情報の一部となり、子孫に受け継がれたものです。内在性レトロウイルスは、ヒトでは全遺伝情報の約8%を占めると考えられています。たとえば、慶応大の研究チームは「ガンの転移には、ヒト内在性レトロウイルスの『HERV-H』が重要な役割を果たしている可能性がある」と発表しています。

ブタからヒトへの臓器移植を行うことで、移植を受けた患者がブタ内在性レトロウイルスの影響も受け、ガンや免疫不全などを発症したり悪化させたりするリスクが高まるのではないかとの懸念があります。

ブタの臓器のヒトへの移植の実用化に大きな一歩になったのは、2017年にアメリカのeGenesis Bio社の研究チームが、遺伝子編集技術「CRISPR」を用いてブタの内在性レトロウイルスを除去することに成功したことです。現在は各国で研究が進められ、2021年にはニューヨーク大学で「脳死した54歳の女性患者の体に、遺伝子組み換えしたブタの腎臓を接続する実験」が行われました。実験は54時間続き、ブタの腎臓はヒトの血中の老廃物を除去して尿を生成しました。

臓器移植を待つ人の数はアメリカだけでも約11万人といわれていますが、臓器を提供してくれる米国内のドナーは約1万人(臓器移植件数は約2万件)で、年間6000人の患者が臓器移植を受ける前に死亡しています。日本は待機数が約1.4万人で、年間ドナー数が約100人(臓器移植件数は約400件)です。そのため、異種臓器移植はドナー不足を解決するための有望な手段と期待されています。

抵抗感の少ない動物製品、嫌悪される動物の臓器

しかし、安全性がクリアされても、生命倫理や社会的受容の問題が残っています。

動物の一部を人の医療に利用するものとして比較的抵抗感の少ないものに、「動物製品」があります。たとえば整形外科では、牛の骨や腱が利用されています。ヤケドの治療には、ブタの腱や皮膚に由来したコラーゲンを使った人工皮膚が使われています。心臓移植を受けたベネットさんは、10数年前にブタの組織から作られた人工の心臓弁(生体弁)の移植手術を受けました。

プロフィール

茜 灯里

作家・科学ジャーナリスト/博士(理学)・獣医師。東京生まれ。東京大学理学部地球惑星物理学科、同農学部獣医学専修卒業、東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了。朝日新聞記者、大学教員などを経て第 24 回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。小説に『馬疫』(2021 年、光文社)、ノンフィクションに『地球にじいろ図鑑』(2023年、化学同人)がある。分担執筆に『ニュートリノ』(2003 年、東京大学出版会)、『科学ジャーナリストの手法』(2007 年、化学同人)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、米軍制服組トップ解任 指導部の大規模刷

ワールド

アングル:性的少数者がおびえるドイツ議会選、極右台

ワールド

アングル:高評価なのに「仕事できない」と解雇、米D

ビジネス

米国株式市場=3指数大幅下落、さえない経済指標で売
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ウクライナが停戦する日
特集:ウクライナが停戦する日
2025年2月25日号(2/18発売)

ゼレンスキーとプーチンがトランプの圧力で妥協? 20万人以上が死んだ戦争が終わる条件は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 3
    メーガン妃が「アイデンティティ危機」に直面...「必死すぎる」「迷走中」
  • 4
    1888年の未解決事件、ついに終焉か? 「切り裂きジャ…
  • 5
    深夜の防犯カメラ写真に「幽霊の姿が!」と話題に...…
  • 6
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 7
    ソ連時代の「勝利の旗」掲げるロシア軍車両を次々爆…
  • 8
    私に「家」をくれたのは、この茶トラ猫でした
  • 9
    トランプが「マスクに主役を奪われて怒っている」...…
  • 10
    飛行中の航空機が空中で発火、大炎上...米テキサスの…
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 3
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 4
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 5
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 6
    朝1杯の「バターコーヒー」が老化を遅らせる...細胞…
  • 7
    7年後に迫る「小惑星の衝突を防げ」、中国が「地球防…
  • 8
    ビタミンB1で疲労回復!疲れに効く3つの野菜&腸活に…
  • 9
    「トランプ相互関税」の範囲が広すぎて滅茶苦茶...VA…
  • 10
    飛行中の航空機が空中で発火、大炎上...米テキサスの…
  • 1
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 2
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 3
    【一発アウト】税務署が「怪しい!」と思う通帳とは?
  • 4
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 5
    「健康寿命」を延ばすのは「少食」と「皮下脂肪」だ…
  • 6
    1日大さじ1杯でOK!「細胞の老化」や「体重の増加」…
  • 7
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 8
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 9
    世界初の研究:コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果…
  • 10
    「DeepSeekショック」の株価大暴落が回避された理由
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story