混迷カタルーニャの歴史と未来を読み解く
住民投票が終わった夜、中央政府のラホイ首相は投票は無効だと改めて強調した Angel Navarrete-Bloomberg/GETTY IMAGES
<独立を問う住民投票を終えて全く見えない次の展開。歴史を見つめ直し、将来を占ってみると――>
スペインのカタルーニャ自治州で10月1日、独立の是非を問う住民投票が行われた。治安部隊が投票を阻止しようと介入し、800人以上が負傷。投票できなかった市民も多かった。
しかし投票した市民のうち約9割が独立を支持したと、少なくともカタルーニャ側は発表している。中央政府とカタルーニャの対立がどう展開するかは見えないが、危機が収まる気配は全くない。
なぜ事態がここまでこじれたのか。オバリン大学(米オハイオ州)の教授(ヒスパニック研究)で、近く『スペイン内戦の記憶の戦い──歴史・フィクション・写真』を出版するセバスチャン・フェーバーに、アイザック・チョティナーが見通しを聞いた。
――独立を求めるカタルーニャの強い思いを理解できない人は多いだろう。その思いをどう解説するか。
その点については、長期的な視点と短期的な視点の両方から説明できる。
長期的な視点のほうから話すと、スペインは15世紀に1つの国家の形になったが、ずっと多民族国家だった。自分たちを「スペイン人」より、カタルーニャ人、バスク人、ガリシア人などと自任するいくつものコミュニティーで構成され、それが今も残っている。
19世紀後半には、そうした意識が再び高まった。スペインが共和国になった1930年代には、その感情がある種の自治への願望として政治的に表出し、ガリシア、バスク、カタルーニャは自治州という特別な地位を獲得した。
しかし後のフランコ独裁政権(1939~75年)の下で、そうした願望は厳しく抑圧された。子供にバスクやガリシア、カタルーニャ語風の名前を付けることが禁じられ、自治州を国家のごとく表現することはことごとく禁止された。
フランコが死去し、70年代後半にスペインが民主国家になると、多民族のアイデンティティーをどうするかという問題が浮上した。その解決策とされたのが、バスクやカタルーニャなど17の自治州を持つ準連邦国家という形を取ることだった。その結果カタルーニャの住民は長年、自分たちは言葉も文化もスペインとは違うと考えてきた。
――その思いが過去数年でここまで大きくなった理由は?
ここで短期的な視点からの解説になるが、つまりスペインの保守派の政治家や政党が「多民族」というこの国の本質を完全には受け入れなかったからだ。スペインを「誇り高く統一された均質の国」だとするフランコ的な見方から脱却し切れていないためだろう。
カタルーニャ州は06年に自治憲章を改定した。注目されたのはスペイン憲法で「民族体」とされているカタルーニャを、新たな自治憲章が「ネーション(国家)」と称したこと。ある種の格上げだ。
スペインの保守派政党は、憲法裁判所に異議申し立てを行った。憲法裁は10年、新たな自治憲章の重要な部分を違憲と判断した。カタルーニャの多くの人はこれを、中央政府には自分たちのアイデンティティーを尊重する意思はないという新たな証拠であり、侮辱と受け止めた。
カタルーニャのアイデンティティーには、富の分配の問題が絡む。自治州政府の税収に対する管理権限と、中央政府がどう国内の各地方に資金を配分するかという問題だ。
カタルーニャのように相対的に裕福な地方は、国庫に納める金額のほうが交付される金額よりも大きくなる。経済危機の直後の10年には、経済的に不利な立場に置かれているという思いが強まった。