最新記事

BOOKS

ラッパーECDの死後、妻の写真家・植本一子が綴った濃密な人間関係

2019年6月24日(月)15時30分
印南敦史(作家、書評家)


 部屋が静かになってやっと落ち着き、冷蔵庫からそっとハーゲンダッツを出す。食べながら本を読んでいると、ミツも同じように本を読んでいる。今日は『それでもわたしは山に登る』を手に取り、続きを読もうとしたが、著者に乳癌が見つかったところからなかなか読み進められなくなった。抗癌剤治療をしながらも、時には家族について来てもらい、山に登ったり、行きたい場所へ行こうとする著者の姿に、石田さんの姿が重なってしまう。もちろん石田さんは、私にどこかへついて来て欲しいなど、一度も言わなかった。ガリガリに痩せ細った体で、亡くなる三日前まで一人で行動していたくらいだ。時々人から、旦那さんの介護おつかれさま、などと言われることもあったが、介護などした覚えはない。私から気を遣って何かをしたことも、石田さんから何かを頼まれたことも、ほとんどなかったように思う。最後の最後まで石田さんは一人であり続けたし、私はそれに甘えきっていた。けれどこうして余裕の生まれた今になって、どうしてあの時、優しくしてあげられなかったんだろう、と思ったりもする。もっと石田さんのそばにいて、様子を見守り、その言葉を聞いて、自分が代弁出来たんじゃないか。あの渦中にいた時は絶対に無理だったけれど、だからこそ今、こうして後悔することも出来ている。

 ぼーっとしながら食べかけのハーゲンダッツのカップに手を伸ばすと、軽くなっていて「あっ」と声が出た。食べられた!と悔しがっていると、
「ちゃんと言ってくんないとわかんないよ」
 とミツが笑った。(175〜176ページ「二〇一八年 十月」より)

石田さんが亡くなってから10カ月近くの歳月を経て新たなパートナーと出会ったという"データ"しか見えていない人の中には、都合のいいように誤解したがるタイプもいるかもしれない。

人は他人に対して無責任で残酷な生き物なので、そういう偏った見方をする人が出てきたとしてもまったく不思議ではない。しかし、フラットな気持ちのまま本書を読んだ人であれば、決してそんな偏った考え方はしないはずだ。

著者の日常は日を追うごとに少しずつ安定していくが、それでも葛藤からなかなか抜け出せないからだ。

「いま」がこれから先も続いていくのだろうと思わせる


「あぁ、もう石田さんはいないんだ」

ミツが隣にいるのに、もう頼れる人はこの世に誰もいないという気持ちになってしまう。石田さんはとっくにいないのに、このタイミングで初めて事実を突きつけられたような。
 布団から起き上がり、声を上げて泣く。辛かった時の思い出と、もう二度と会えないという事実、そして、この家にはもう石田さんのものがほとんど無いことに気づいた。(191ページ「二〇一八年 十一月」より)

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ワールド

ウクライナ、北東部国境の町の6割を死守 激しい市街

ビジネス

インフレ率低下、持続可能かの判断は時期尚早=ジェフ

ビジネス

インフレ指標に失望、当面引き締め政策が必要=バーF

ビジネス

物価目標達成に向けた確信「時間かかる」=米アトラン
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:スマホ・アプリ健康術
特集:スマホ・アプリ健康術
2024年5月28日号(5/21発売)

健康長寿のカギはスマホとスマートウォッチにあり。アプリで食事・運動・体調を管理する方法

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    米誌映画担当、今年一番気に入った映画のシーンは『悪は存在しない』のあの20分間

  • 2

    「隣のあの子」が「未来の王妃」へ...キャサリン妃の「ロイヤル大変貌」が話題に

  • 3

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 4

    中国の文化人・エリート層が「自由と文化」を求め日…

  • 5

    半裸でハマスに連れ去られた女性は骸骨で発見された─…

  • 6

    SNSで動画が大ヒットした「雨の中でバレエを踊るナイ…

  • 7

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバ…

  • 8

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 9

    9年前と今で何も変わらない...ゼンデイヤの「卒アル…

  • 10

    「親ロシア派」フィツォ首相の銃撃犯は「親ロシア派…

  • 1

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 2

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 3

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた異常」...「極めて重要な発見」とは?

  • 4

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバ…

  • 5

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 6

    「隣のあの子」が「未来の王妃」へ...キャサリン妃の…

  • 7

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 8

    SNSで動画が大ヒットした「雨の中でバレエを踊るナイ…

  • 9

    「まるでロイヤルツアー」...メーガン妃とヘンリー王…

  • 10

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 4

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 5

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 6

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 7

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 8

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 9

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

  • 10

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中