コラム

「理解」と「目途」と「目標」はどう違うのか──奇妙な日本語を使う日銀に必要なメディア戦略

2012年02月17日(金)12時52分

 日本銀行は2月14日の金融政策決定会合で、「中長期的な物価安定の目途」を1%とし、「それが見通せるようになるまで、実質的なゼロ金利政策と金融資産の買入れ等の措置により、強力に金融緩和を推進していく」という方針を明らかにした。この「サプライズ」で為替相場は円安に動き、17日午前には1ドル=79円台になった。

 日銀は、これまで「中長期的な物価安定の理解という表現で:「0~2%程度の範囲内にあり、委員毎の中心値は、大勢として、1%程度となっている」という見解を明らかにしてきた。今回はその「理解」が「目途」になったわけだが、いったいどう違うのか、という記者団の質問に、日銀の白川総裁は記者会見で次のように答えている:


この数字は、個々の委員の数字を集めているもので、必ずしも、日本銀行という組織、日本銀行政策委員会としての意思、判断を表すものになっていないのではないかという批判がありました。これに対し、今回の「目途」という数字は、日本銀行政策委員会としての判断を示したものであり、そこが大きな違いです。


 政策委員会としての判断を示すなら、FRB(米連邦準備制度理事会)のように長期的目標(longer-run goal)という表現をしてもいいのではないか、という質問には、白川総裁はこう答えている。


わが国では、「インフレ目標」という言葉が、目標物価上昇率との関係で金融政策を機械的に運用することと同義に使われることが――もちろんそれだけではありませんが――多いように思います。しかし、実際の金融政策運営は、いわゆるインフレーション・ターゲティングを採用している国を含めて、物価の変動と目標との関係で機械的に金融政策を運営するのではなく、今は、中長期的にみた物価や経済の安定を重視した政策運営をするようになっています。


「理解」と「目途」と「目標」がどう違うのか、日銀ウォッチャーにはわかるかもしれないが、普通の日本人にはほとんど理解できないだろう。この「目途」は、英語版の発表では"the price stability goal"となっているが、目途というのは「その程度になってほしい」ぐらいの意味で、ゴールとは違う。企業でも社員の目標管理を行なうが、これを「目途の管理」としたら社員はまじめに仕事をしないだろう。

 このように訓詁学的な一言一句をめぐる議論が行なわれるのは、金融政策では年中行事である。これは相手が金融市場のプロだけならいいが、政治家もジャーナリストも「日銀語」をよく知らないので、一部のジャーナリストは「今までインフレ目標を拒否してきた日銀が、FRBがインフレ目標を採用したらすぐまねた」と報道し、他方では政治家が「目途などという曖昧な表現ではだめだ。法律でインフレ目標を設定しろ」と批判する。

 経済学的には、金利がゼロに張りついている状態では、日銀がインフレ目標を設定しても物価が上がるはずがない。FRBがゴールとして設定した2%は、むしろ現在のインフレ率(PCEコア価格指数)2.1%を抑制する目標であって、人為的にインフレを起こす目標ではない。しかし多くの国民はそんなややこしいことは知らないので、「日銀の腰が引けているからデフレから脱却できない」という誤った印象だけが残ってしまう。これが消費者や投資家の心理に与える影響は小さくない。

 同じことなら「インフレ目標」というわかりやすい言葉を使って「これは法的拘束力をもつ『ターゲット』ではない」という注釈を入れたほうがよかったと思う。そうしても実際には物価が1%も上がることは考えられないが、そのとき日銀は「われわれはできる限りのことはやったが、金融政策には限界がある」といえばよい。福井総裁時代の量的緩和には、日銀が最善をつくしたという印象があり、彼はEconomist誌に「世界最高の中央銀行総裁」に選ばれた。

 アメリカの大統領選挙では、各候補がスピン・ドクターを雇っている。これは自分の主張が望ましい形で報道されるようにメディアを操作(スピン)する仕事だ。いくら正しいことを主張しても、それをメディアが歪曲して伝えては意味がない。日銀は広告代理店などのスピン・ドクターを雇って、どうすれば自分の意図が正しく伝わるか、メディア戦略を考えたほうがいい。

プロフィール

池田信夫

経済学者。1953年、京都府生まれ。東京大学経済学部を卒業後、NHK入社。93年に退職後、国際大学GLOCOM教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現在は株式会社アゴラ研究所所長。学術博士(慶應義塾大学)。著書に『アベノミクスの幻想』、『「空気」の構造』、共著に『なぜ世界は不況に陥ったのか』など。池田信夫blogのほか、言論サイトアゴラを主宰。

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