コラム
ふるまい よしこ中国 風見鶏便り
水と報道:見えない基準と真実
「ニセモノ食品」はもうすっかり中国のキーワードになってしまった。以前「外食怖い」でも書いたように、かなりの人たちが「毒食品」を警戒するようになった。
日本人に比べて意外に鷹揚な中国の人たちがピリピリし始めたのはやはり、2008年秋に暴露された「メラミン入り粉ミルク」事件からだったと思う。「毒ミルク事件」と呼ばれるようになったこの事件(詳細は「たかが粉ミルク、されど粉ミルク」)は、栄養補給源をミルクに頼っていた乳児たちが被害者になってしまったことで中国全土を震え上がらせた。
実はわたしも広い意味でこの「毒ミルク」の被害者の一人である。調査の結果、工業用化学物質のメラミンが入っていたのは最初に報道された三鹿乳業ブランドのものだけではなく、実際は酪農家の中では「タンパク質の検査値を高める」と言われてかなり出まわっており、お取り潰しになった三鹿以外に、光明、伊利、蒙牛などの製品からも検出された。不幸なことに乳児用粉ミルク以外でまっ先に名前が上がった牛乳をわたしは長年、「愛飲」していたのである、それもよりにもよって「味が濃厚だ」という理由で......
その時のショックをわたしは忘れられない。幸か不幸か、乳児用ミルク以外で明らかにメラミン入りミルクを飲用して体調不良を起こしたという人の報道はなかったし、わたし自身も精神的なショック以外は特に変わったことはなかった。だが同様の思いをした人は多かったはずだ。とにかく中国全土のトップ企業にも名を連ねる大ブランドの製品からもこの化学物質が検出されたのだから。さらに牛乳は飲む人たちにとっては日常の一部で、そんな「日常」が脅かされたことも人々をパニックに陥れた。
その後、食用油に使われていた「下水油」が摘発される。その最初は本当に下水から油を抽出したものを指していたが、その後油の二次使用、三次使用が問題になる。家庭内での使い回しなら二次三次使用も不思議ではないが、これも有名メーカーが使用済み油を精製して売っていたことが明らかになった。人々は外食どころか、自炊するための買い物にも神経を使わなければならなくなった。
そして最近、みたび人々の日常を脅かす事件が起こっている。4月9日、著名ミネラルウォーターブランド「農夫山泉」の製品基準が「水道水にも満たないレベル」と報道されたのだ。あー、またしてもわたしの愛飲ブランドである。わたしだけではない、周囲でも多くの人が「えーっ、農夫山泉が?」という声。同ブランドは間違いなく、ある程度口にするものに気を払っている人たちが選ぶブランドの一つだった。
その理由は、「農夫山泉」が「(浙江省)千島湖の深水部を水源とし、天然のすがすがしく、独特の甘みが特徴。国の森林公園の一つである千島湖は飲用水源として一級水源保護区に指定されており、水域面積は573平方キロメートル」を売りにするブランドだから。中国人にとって観光名所としての千島湖のイメージも重なり、日本で言うなら「富士山のミネラルウォーター」というイメージに近い。
「京華時報」は、その「農夫山泉」が「国家基準の『生活飲用水基準GB5749』ではなく、浙江省が定めた『ボトル入り飲用ミネラルウォーター基準 DB33/383-2005』に準じて生産されており、国家基準が定めたヒ素、セレン、カドミウムの含有量制限を満たしていない」と指摘した。
「農夫山泉」側はこれに対してすぐに声明を発表。同社の製品は国、業界、地方、企業の基準に基づいて管理されており、京華時報が指摘した国家基準GB5749(同時にこれは飲用水道水の基準だと指摘)のみならず、やはり国家基準のGB19298「ボトル入り飲用水衛生基準(2003年版)」、浙江省のDB33/383「飲用ミネラルウォーター基準」に合格していると反論した。
そして驚いたことに続けて同社の公式ブログ上で、「この報道は意図を持って練り上げられたものであり、その黒幕は国有飲用水ブランド、『華潤怡宝』だ」と指摘、「華潤怡宝」が3月からずっと同社を狙ってメディアと組んでネガティブ情報を流してきた、と「証拠」を列挙した。今度は「華潤怡宝」がその日のうちに、「我々は農夫山泉がその声明で述べたような形で参与はしておらず、農夫山泉への法律的手段を取る権利を保留する」と声明を発表した。
この辺りから事件はだんだんときな臭さを帯びてきた。興味深いことに、「華潤怡宝」は記事が発表された4月9日に「中国飲料工業協会」などとともに北京で記者会見を開き、「中国ボトル入り飲料水企業責任提議書」なるものを発表している。さらに不思議なことにこの「京華時報」による暴露記事の後、他のメディアもこぞってこの話題を追ったが、どれも「浙江省基準とは?」「国家基準と浙江省基準の関係は?」という、読むものを煙に巻くような複雑な中国の基準面での優劣の比較などに終止した。
そして「京華時報」が「上海の某検査機関が2012年11月に農夫山泉をチェックしたレポートによると、品質基準は浙江省基準に準じており、ヒ素、カドミウム、セレン、臭素塩酸などの基準値はどれも水道水基準すら満足していない」と続報。だが、この記事に出てくる「某検査機関」は一体どこなのか、またそれとは別に「中国民族衛生協会健康飲用専門委員会」が「農夫山泉が順守している浙江省地方基準では、水道水レベルにも満たない」と語ったと大きく伝えているが、この「中国民族衛生協会なんたら」はほとんどの人が聞いたこともない機関で、なんとも心もとない。
だがこの後騒ぎはどんどん大きくなり、さらにこのあたりから「農夫山泉」vs「京華時報」の様子が色濃くなっていった。
もちろん、飲用水の安全関連の報道は誰しも気になる。だが、この騒ぎが起こる直前には政府系メディアによる「アップル叩き」が展開されたばかりで、「メディアの公平性」に対しても人々は不信を抱いていた。その上、上述したように報道するは「京華時報」ばかりで、その「京華時報」の記事も曖昧な点が多い。
そんなバトルが1カ月ほど続き、5月6日午後に「農夫山泉」側は北京で同社の代表である鍾シャンシャン(「シャン」の漢字は「目」ヘンに「炎」)氏自らメディアを前に説明を行う記者会見を実施。各ニュースポータルサイトが現場からネット生中継するほど注目される会見となった。
そこで鍾氏は、まず、「農夫山泉」は「厳格に国と地方の基準に順守しており、国内で最高の飲用水基準を採っている企業の一つであり、京華時報の名誉毀損に対して6000万元(約9億円)の損害賠償訴訟を起こした」ことを明らかにした。
鍾氏は「『京華時報』の報道における問題点は3つ。一つは『農夫山泉』の基準が水道水以下だという点。二つ目は浙江省の地方基準DB33/383を廃止と決めつけたこと。三つ目は北京の市場で『農夫山泉』の撤収が行われているとした点」と指摘。そこで初めて同社の自社基準について、「ヒ素、カドミウム、硝酸塩及び臭素塩酸という四つの有害基準は「基準が低めに設定された国家基準をさらに調整」したものであり、「農夫山泉の企業基準は国と地方の基準を合わせたもので、(ボトルの)ラベルにもきちんと表示してある」と説明した。
また、「『京華時報』が5月3日の第一面で大きく報じた『農夫山泉を商店から回収』という発言は『北京ボトル水販売協会』が発表したもので、(国家行政機関でもない)同協会のような民間協会が商店に対して命令できるものではない」と指摘。さらに「『京華時報』は自分を『中国共産党下の社会責任を負ったメディア』と呼ぶ権利はない。党は偉大で光栄な総体であり、一つの機関が党の名を使って批判対象者を抑圧したり、平等な対話を抑圧したり、公民企業を抑圧することはできないはずだ」と、中国共産党北京市支部委員会宣伝部傘下の「京華時報」を激しく批判した。
だが、記者会見が記者からの質問に移ると、まず鍾氏は「京華時報」の記者を指名。激しいやり取りの間にどこからともなく、記者に向かって「出て行け!」という声や、鍾氏の回答に対して激しい拍手が起こったり、と明らかにサクラらしき人物が記者席に紛れ込んでいたと言われる。
さらに、その後浙江省のテレビ所属と名乗る女性記者が質問に立ち、「京華時報」記者に対して、「ネットサイトで確認すると分かる。『華潤怡宝』の窓口担当者と電話番号は北京ボトル水協会の窓口担当者と電話番号と同じ。そんなことも調べてないの?」と詰め寄った。さらに「中国食品報」の記者も、同様に「あなた方の報道にあった中国民族衛生協会飲用水専門委員会の秘書長は、三つの飲用水企業の法廷代表者だ。そんなソースは信用出来ないし、あなたたちの報道はまったく信用出来ない」と批判した。
実は「農夫山泉」のトップである鍾氏は、かつて80年代に5年間、「浙江日報」の記者を務めた経験を持つ「脱サラ」起業家なのである。これまでも「農夫山泉」の広告やPRにも熱心に関わってきたといわれており、記者会見の場を自分たちに有利に盛り上げるのはお手の物、ということらしい。
お陰でこの記者会見後の評判はめちゃくちゃとなった。ネットオピニオンリーダー代表として記者会見にも招待されていたコラムニストの五岳散人氏は、「両者両敗の記者会見だった。『京華時報』の態度はプロとはいえず、横柄で、すでに報道の世界を引退したわたしですら驚きを隠せない。一方で『農夫山泉』は恥ずかしげもなくサクラを使い、同情の気持ちすら失せてしまった。この事件は両者がきちんと意見交換出来れば、中国の食品安全及び品質管理システムの混乱を暴き出すことが出来たはずなのに、ただのおちゃらけドラマになってしまった」とつぶやいている。
この記者会見で鍾氏は、「京華時報」記者が放った「そんなに素晴らしい基準によって生産されているのならば、なぜ今日、北京品質監督局が『農夫山泉』の北京工場を閉鎖したのか?」という質問に答え、「よい質問だ。我々は北京に10万戸の顧客がいる。これまでいかなる品質事故も基準問題も引き起こして来なかった。我々は今後、北京での生産を行わない。10万の消費者には申し訳ないが、このような(北京の)環境では生産を続けていくことは出来ない。(民間の)生産協会が一企業の製品を回収したり、そんな生産協会の決定が(北京発行の)『京華時報』の第一面を飾るような土地からは、我々は撤退するしかない。農夫山泉は暴力には屈服しない」と爆弾発表をした。
事態はますます混乱してしまった。北京の業界機関と浙江省企業の対立、メディアと民間企業の対立、メディアとメディアの対立、企業及び業界機関のメディアとの結託、そしてよく見えてこない何かの権力に操作されているかのような混乱、さらには国の基準、地方の基準、業界基準という複雑な生産構造......。そして今に至るも、国や政府レベルの機関がまったくこの事件についてコメントしていないのである。
この記者会見後、今後は北京で「農夫山泉」を買えなくなるだろうということは分かった。だが、消費者の我々には結局このミネラルウォーターに問題があるのかどうか、真相は分からない。買えなくなるのだからいいのかもしれないが、長年飲んできた身としてはやはり気になるではないか。とはいえ、アップル叩きの余韻もある。まったく何がどうなっているのか。いつも我々消費者は置いてけぼりだ。
そんなことを考えて記事を探していたら、「フィナンシャル・タイムズ中国語版」の同記者会見を伝える記事の最後にこういう引用がなされていた。
「『21世紀経済報道』紙の経済デスクは(微博で)こうつぶやいていた。『いろんな人が一体どうなっているんだとたずねた時、ぼくは沈黙を守ってきた。そろそろきちんと説明すべき時が来たようだ。『ぼくらはもともと農夫山泉と対峙するつもりでいた。その品質に確かに問題があったからだ。そんなところに頭が熱くなったやつが飛び出して、品質が問題だとか、人格がどうだとか騒ぎ立てて、大騒ぎにしてしまった。だからぼくらは脇から眺めているしかなかったんだよ。ぼくらは道理を語るつもりで、喧嘩をするつもりはさらさらないからね」
うん、やっぱり買うのを控えたほうがよさそうだ。
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