南米街角クラブ
最初に提案/登録したもの勝ち!国際サンバの日に初の公式サンバ
12月2日は国際サンバの日。
ブラジルの新型コロナウイルス新規感染者も減少傾向で、今年は各地でお祝いができたようだ。
サンバと言えばブラジルの代表的な文化として世界的にしられているだろう。
特にリオデジャネイロの会場で行われるコンテスト式のカーニヴァルは、国内だけでなく国外からも多くの観光客が訪れる大イベントして政府がバックアップしている。
通常カーニヴァルはブラジルの各地で毎年2月末から3月初旬頃に行われるのだが、残念ながら今年は中止。
来年こそはと願っている所だが、現時点で正式決行を発表した州はない。 オミクロン株への懸念から、既に来年のカーニヴァルの中止を発表した州もある。
*ブラジルのカーニヴァルでは必ずしもサンバが演奏されるわけではないのだが、長くなるのでこれについてはまた後日。
|愛国主義とサンバ
サンバというブラジル文化は、エキゾチックなものを探し求めるヨーロッパ人や米国人たちの好奇心から世界に広まっていったのもあるが、1930年代のヴァルガス政権が国民の意思統一のためにサンバに愛国心を取り入れさせたという話はご存じだろうか。
かつての征服者であったポルトガル人、彼らに連れてこられたアフリカの黒人奴隷、先住民、ヨーロッパやアジアからの移民、そしてこれらの人種の混血の子孫が入り混じっていた当時のブラジルで、ヴァルガスは「ブラジル人とは何か」と国民に考えさせることに執着した。
サンバはそこにぴったりとハマったのだ。
この頃誕生した作品(サンバ・エザルタサォンと分類される)は、ブラジルの素晴らしさを語る歌詞が書かれ、プロモーション的に利用されることも多くなった。 こうしてサンバは政治的に利用される背景と共に、ブラジルから世界へ旅立っていく。
|サンバは期間限定イベントではない
サンバと言えばカーニヴァルが連想されることが多いが、それは前述したとおり政府が用意した観光業のイメージがついてしまっただけで、ブラジル人にとっては日常的に楽しまれるもののひとつである。
毎週土曜は"フェイジョアーダ"と呼ばれるその名の通りブラジルの代表的な料理フェイジョアーダを食べながらサンバを楽しむイベントが各地で行われているし、地域によっては曜日に関わらずサンバのイベントが行われる。
サンバチームの集まりから、テレビ番組、親戚たちとのパーティーなど、あらゆるところで聴き、踊ることができるため、決して年に一度のカーニヴァル中だけ現れるものではない。
中にはサンビスタと呼ばれる人生をサンバに捧げるような人もいる。
では、サンバはどのように誕生したのだろう。
|「サンバしにいこう!!」
耳から入るサンバの特徴と言えば、沢山の打楽器の音だろう。
やはりそのルーツは太鼓をたたく(ポルトガル語ではバトゥッキという)習慣があるアフリカからやってきた。
1888年に奴隷解放になってから、元奴隷であるアフリカ系の黒人たちは仕事を求めて当時の首都であるリオデジャネイロへ移り住んでいく。
20世紀初頭、彼らは様々な仕事に就き、少しずつ都会の生活に順応しながらも先祖から受け継がれるバトゥッキを自宅の裏庭で楽しんでいた。
特にチア・シアータ(チアは"おばさん"という愛情が込められた呼び方)と呼ばれるバイーア州出身の女性の家には地元でも有名な音楽家たちが集まり、その噂を聞きつけて政治家も顔を出すことがあったそうだ。
このように人が集まって歌ったり踊ったりすることを"サンバ"と呼んでおり、当時はアフリカルーツの音楽やブラジルで誕生した初のポピュラー音楽であるショーロなどが演奏されていた。
|初めて公式に登録された"サンバ"の楽曲
1916年、チア・シアータの家に集まっていた音楽家たちは、ブラジル北東部のフォルクローレを元に、即興しながら一つの楽曲を作り上げた。
別の名前がついていたが、のちに"ペロ・テレフォーニ"(邦題"電話で")という名前で初めてのサンバの楽曲として国立図書館に登録、録音される。 実際は、マシーシ(もしくはサンバ・マシシャード)と呼ばれるリズムで録音されており、その場で踊るには最適なリズムだった。
のちに、パレードで歩きやすいようにテンポアップし変形されたものが一般的に今日サンバと呼ばれるリズムである。
参考までに1916年にリリースされたぺロ・テレフォーニと、1973年にサンバの代表的な歌手マルチーニョ・ダ・ヴィラがカバーして再び注目を浴びた音源を載せておこう。
|"ぺロ・テレフォーニ"が大ヒットした理由
楽曲がレコード録音されたことにより、それまでよりいち早く拡散されたこともあるが、何よりカリオカ(リオデジャネイロに暮らす人)の心をとらえて大ヒットした。
実はこの曲、当時流行っていた非合法のルーレットゲームに警察が関与していたというスキャンダルをからかった話が歌われているのだ。
しかし、このまま国立図書館に登録したら法的に問題になるため、申請者のドンガは歌詞を変更。
それでも街中ではオリジナルである警察の不祥事話のまま歌われ続け、現在でも街中のカーニヴァルで親しまれている。
先ほど紹介したマルチーニョの音源では、オリジナル歌詞で録音された。
ブラジルの人達は重大なスキャンダルをもパロディにしてしまう。
その姿勢は今も変わっていないようで、著名人が失言すると数時間後には手の込んだインターネット・ミームが登場するから驚かされる。
|記念すべき初の公式"サンバ"は誰の物?
この曲の大ヒットにより、サンバという言葉はひとつの音楽ジャンルとして確立することになる。
楽曲を登録申請したのはドンガとマウロ・デ・アルメイダだが、前述したとおり複数の音楽家たちの共同作品であった。
歴史に名を残すことになったが、名声を独占しようとした悪事も一緒に語られることになった。
忘れてはならないのは、同曲は当時演奏されていた楽曲の中のひとつであり、ドンガはそこにいた一人である。
ぺロ・テレフォーニ以前にも、ヒットはしなかったもの、似たスタイルの楽曲が2曲程録音されていることもあり、間違ってもこの曲からサンバが始まったわけではない。
|なぜ12月2日が国際サンバの日なのか
話は戻って、国際サンバの日が12月2日に正式決定したのは1964年7月27日。
サンバが誕生した頃にチア・シアータの家に集まっていた音楽家のうちの誰かの誕生日かと思いきや、ミナスジェライス州出身の作曲家アリ・バホーゾがバイーア州に初めて足を踏み入れた日というから驚きだ。
これを提案したのはバイーア州出身の市会議員。
「サンバが生まれたのはリオデジャネイロだが、サンバの心臓となったバトゥッキを持ち込んだのはバイーア州に連れてこられたアフリカからの黒人奴隷たちだ」いう敬意から、バイーアを歌った作品を数多く残したアリ・バホーゾに対するオマージュだそうだ。
サンバは生まれがはっきりしていないので、記念日を決定するのは難しいが、少々覚えづらい日のような気もする。
|アリ・バホーゾはあの有名曲の作曲者
さて、この作曲家アリ・バホーゾ、とある有名曲を書いたブラジルの重要な作曲家である。
ぜひこちらを聴いてみてほしい。
この"アクアレーラ・ド・ブラジル"(邦題"ブラジルの水彩画")は愛国サンバ・エザルタサォン、まさにブラジル賛歌として、米国の映画などに起用され、その際に用いられた"ブラジル"という楽曲名のまま他の国にも紹介された。
日本ではビールのコマーシャルで起用されていたので耳にしたことがある人も多いだろう。
ジャズバンドや吹奏楽の代表的なレパートリーともされているが、日本でよく演奏されるものはAメロが省略されている。
初めて登録されたサンバと言い、国際サンバの日と言い、最初に提案/登録したもの勝ちというのがブラジルらしさでもあるが、そんな事に関係なく、サンバは長い間ブラジルポピュラー音楽の軸として多くの人に親しまれている。
サンバはブラジル各地でまた違ったスタイルで演奏され、更にはサンバを元にした様々な音楽が誕生。
サンバジャズ、サンバロック、ボサノヴァものそのひとつである。
しかしながらブラジルは広く、サンバが流れない地域も沢山ある。
ブラジルの第二の国歌*と呼ばれているのはサンバではなく"アザ・ブランカ"と呼ばれる北東部の音楽であったり、内陸部には日本に紹介されていないが非常に人気のある興味深い音楽も存在し、7年住んでいても新しい発見だらけだ。
これだからブラジル音楽研究はやめられない。
余談だが、ブラジルの第二の国歌と呼ばれる楽曲は複数あるので、これもまたブラジルの大きさと多様性を感じさせられる。(例 "カリニョーゾ"、"ブラジルの水彩画"など)
著者プロフィール
- 島田愛加
音楽家。ボサノヴァに心奪われ2014年よりサンパウロ州在住。同州立タトゥイ音楽院ブラジル音楽/Jazz科卒業。在学中に出会った南米各国からの留学生の影響で、今ではすっかり南米の虜に。ブラジルを中心に街角で起こっている出来事をありのままにお伝えします。2020年1月から11月までプロジェクトのためペルー共和国の首都リマに滞在。
Webサイト:https://lit.link/aikashimada
Twitter: @aika_shimada