コラム

ドイツ哲学界のスター:ビョンチョル・ハンの「疲労社会」を考える

2021年09月29日(水)15時00分

ドイツ哲学の旗手となったビョンチョル・ハン © Byung-Chul Han, via Facebook

<今、世界の注目を集める韓国生まれのドイツの哲学者、ビョンチョル・ハン(Byung-Chul Han)は、『疲労社会』の中で、ハッスルカルチャーを、新自由主義が植え付けた「達成主義」にもとづく心理的統制であると指摘し続けている>

ハッスルカルチャーの弊害

日本ではたびたび「過労死」が問題となってきた。欧州のテレビ局では、日本の過労死問題の特集番組が何度も放送されている。ベルリンで日本の過労死を扱った独仏共同制作のTVドキュメンタリーを観た時、これは日本だけの出来事ではなかった。仕事を最優先し、全力で仕事に取り組むというトレンドは、今や世界中に浸透している。

「ハッスルカルチャー」と呼ばれるライフスタイルは、過剰に働くことが、他人から尊敬され、自分自身を成長させる最善の方法だと教える。もし1日のうちで、可能な限り生産的なことに時間を費やしていないなら、成功するための条件を失うことになる。ハッスル(Hustle)とは、英語で「ゴリ押し」や「強引な金儲け」などを意味し、日本での「頑張り」や「張り切る」といった意味とはかなり異なっている。

ハッスルカルチャーの強迫観念については、すでに多くの医療関係者や研究者などが指摘しているように、努力は必要だが、自分の時間がなくなるまで仕事をするのは危険である。常にハッスルしていると燃え尽き症候群になる可能性があり、健康に悪影響を及ぼすからだ。

過労とメンタルヘルス

過労とメンタルヘルスの直接的な関連性はまだ確立されていない。しかし、過労は生体リズムの乱れにつながり、睡眠不足、うつ病、II型糖尿病、肥満、高血圧、脳心血管系合併症の発症などに影響を及ぼす可能性がある。最近、日本でも報告されているように、自殺のリスクも排除すべきではない。

燃え尽き症候群は確かな病気だ。世界保健機関(WHO)は、燃え尽き症候群を「職場での慢性的なストレスがうまく管理されていないために生じる症候群」と定義している。

ビョンチョル・ハンがナレーションを担当し、出演したエッセイ・ドキュメンタリー映画。ハンは現代の現象である「燃え尽き症候群」について語り、達成志向のデジタル社会の根底にあるテーマを明らかにしている。イザベラ・グレッサー監督作品(2015年)


哲学者ビョンチョル・ハンの観点

今、世界の注目を集める韓国生まれのドイツの哲学者、ビョンチョル・ハン(Byung-Chul Han)は、20カ国以上で翻訳出版されている主著『疲労社会(Müdigkeitsgesellschaft)』(2010)や一連の著作の中で、ハッスルカルチャーを、新自由主義が植え付けた「達成主義」にもとづく心理的統制であると指摘し続けている。2021年10月には、日本でもハン氏の主著である『疲労社会」と『透明社会』が相次いで翻訳出版されるという。ハン哲学の日本での受容に期待したい。

takemura20210929_2.jpg

ビョンチョル・ハンの主著『疲労社会』の英語版『The Burnout Society(燃え尽きる社会)』の表紙。スタンフォード大学出版から2015年に出版された

1959年にソウルで生まれたハン氏は、ドイツで哲学、文学、神学を学び、現在はベルリン芸術大学(UdK)で哲学と文化理論を教えている。ドイツのみならず世界が注目することとなった彼の言説は、「透明性」を強力に推進する社会とハイパー消費主義、過剰な情報処理や過労にさえポジティブに取り組む人々の蔓延が、社会を疲弊させる要因であると指摘した。彼の著作や論考を参照しながらハン氏の思考を紹介してみよう。

プロフィール

武邑光裕

メディア美学者、「武邑塾」塾長。Center for the Study of Digital Lifeフェロー。日本大学芸術学部、京都造形芸術大学、東京大学大学院、札幌市立大学で教授職を歴任。インターネットの黎明期から現代のソーシャルメディア、AIにいたるまで、デジタル社会環境を研究。2013年より武邑塾を主宰。著書『記憶のゆくたて―デジタル・アーカイヴの文化経済』(東京大学出版会)で、第19回電気通信普及財団テレコム社会科学賞を受賞。このほか『さよならインターネット GDPRはネットとデータをどう変えるのか』(ダイヤモンド社)、『ベルリン・都市・未来』(太田出版)などがある。新著は『プライバシー・パラドックス データ監視社会と「わたし」の再発明』(黒鳥社)。現在ベルリン在住。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

国際貿易・政策不確実性が主要リスク=FRB金融安定

ビジネス

中国EVメーカーのBYD、第1四半期の純利益が倍増

ビジネス

世銀、エネルギー融資拡大に重点 原子力事業も対象に

ワールド

イランの港で大規模爆発、40人死亡・1200人負傷
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドローン攻撃」、逃げ惑う従業員たち...映像公開
  • 4
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新…
  • 5
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 6
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 7
    体を治癒させる「カーニボア(肉食)ダイエット」と…
  • 8
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 9
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 10
    足の爪に発見した「異変」、実は「癌」だった...怪我…
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 4
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 5
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 6
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新…
  • 7
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 8
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 9
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 10
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 5
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
  • 6
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 7
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 8
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 9
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 10
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story