国際協力の業界は若者が少ないから──2つの世界をつなぐ伝道師:田才諒哉【世界に貢献する日本人】
現在は東京から出張ベースでアフリカに農業支援を実施
しかし、レディーフォーの社員になって1年後、田才はロシナンテスに転職してスーダンに向かう。声を掛けられ、現場に行きたい気持ちを抑えられなかったのだという。
担当エリアは東京都と同じくらいの広さで、そこに30ほどある村を医療従事者とランドクルーザーで周った。ワクチンを打ったり、井戸を掘ったり、栄養の知識を伝えたりといった巡回診療事業だ。
首都ハルツームの事務所にはスーダン人のスタッフが5~6人。日本人のスタッフは田才を含めて2人いたが、もう1人は不在の期間もあり、結果的に事業の運営から会計、人事まで、大学を卒業して1年しかたっていない田才がほとんど見たという。「保健省のハイレベルな役人と交渉をするのも初めてだったが、おかげでかなりタフになった」
その後だ。田才が英サセックス大学に進学し、ほぼ同時期に「国際協力サロン」を立ち上げたのは。現場の経験と資金調達の経験に加え、「いつか国連機関で働きたい」という夢のために、アカデミックな経験を積むのが目的だった。
イギリスで修士号を取得した田才は帰国し、JICA海外協力隊の制度を通じて国連世界食糧計画(WFP)のマラウイ事務所に派遣された。任期は2年。マラウイには2020年1月に渡った。そこに、新型コロナウイルスが世界を襲う。
コロナ禍のため、わずか3カ月弱で帰国を余儀なくされた田才。その後はリモートでWFPの仕事を続けたが、夏前には結局、JICA側で実質的な中断となる任務終了の判断が下されたという。
仕事を探さなければならない――。田才は東京で、35年以上の歴史を持つササカワ・アフリカ財団に職を得た。今はエチオピア、ウガンダ、ナイジェリア、マリの4カ国を中心に、出張ベースで農業支援を実施している。
国際協力サロンの原点は大学時代の国際協力カフェ
話を「国際協力サロン」に戻そう。
実はこのサロン創設には、原点とも言える体験がある。田才は大学休学時、e-Education派遣のパラグアイから帰国してすぐ、友人たちの協力を得て、横浜の関内で「国際協力カフェ」と銘打ったイベントを開催している。2日間で200人近く来場したという。何のためのイベントだったのか。
「貧困とか児童労働とか紛争とか、国際協力には暗いイメージが付いて回る。僕自身もそうだったが、今でもそう思っている人は多いかもしれない。確かにそういう側面はあるけれど、同時に文化や食べ物、価値観、生き方など、日本人が学ぶべきこともたくさんあって、それを伝えたいと思った」
イベントで会った人に「月曜日なら空いている場所があるから使っていいよ」と言われた田才は、わが意を得たりとばかりに、週1回「国際協力カフェ」の店長を務めた。途上国の料理や飲み物を提供し、ワークショップを開いていたという。
あの国際協力カフェが、現在の国際協力サロンにつながっている。
「もともとオフラインでやっていたことが、オンライン化した。社会課題があることを楽しく伝えたい、途上国にも楽しい側面があることを知ってもらいたい、暗いイメージを払拭したいと、今も考えている」と、田才は言う。
環境問題を訴えるのに、海外からアーティストを招いて原宿でライブペインティングを実施したのもその一環だ。最近は小学校のSDGs(持続可能な開発目標)教育支援も行っており、サロンの会員をオンラインで小学校とつなぐ活動に力を入れている。