なぜ中台の緊張はここまで強まったのか? 台湾情勢を歴史で読み解く
TAIWAN, WHERE HISTORY IS POLITICAL
台湾は活発化する東西交易の中継地として目を付けられた。日本、中国、東南アジアの結節点の洋上に独り浮かぶ台湾島の地政学的優位性は、今日まで、台湾が大国に狙われやすく、「兵家必争の地」となる原因となっている。
台湾に最初に拠点を開いたのは名付け親のポルトガルではなかった。オランダが中国大陸に面した台南にゼーランディア城を築き、スペインも台湾北部の淡水にサント・ドミンゴ城を造って北部一帯を支配した。のちにオランダがスペインを追い出して台湾の支配者となった。どちらの城も、台湾では現在古跡として整備されている。
そのオランダを台湾から駆逐したのが、日本でもよく知られた鄭成功(ていせいこう)である。中国人海賊と日本人女性の血を引くこの若者は、落ち目の明朝再興を願って台湾を拠点に清朝勢力に対抗した。鄭成功の死去後、台湾は清朝の影響下に置かれた。スペイン、オランダ、鄭成功、清朝と目まぐるしく支配者が変わったのは、全て17世紀の出来事だった。
そして、大陸王朝が台湾を「領土」としたのはここからであり、「いにしえの時代から中国のものだった」との中国の主張は歴史的事実とは言い難い。
この頃から台湾への漢人移民が本格化する。対岸の福建から閩南(びんなん)人が、広東からは客家(はっか)人が、農業や商業を営むために流入した。
現在の台湾の人口構成上、「4大グループ」と呼ばれる閩南人、客家人、(1949年以降にやって来た)外省人、先住民族(アミ族、パイワン族など16グループが公式認定)の中で、7割強を占める閩南人と1割強を占める客家の起源はここにある。台湾の歴史上最大級の人口爆発がこの時期に起きたのである。
清朝に挑戦した日本
当時の清朝は、台湾をそこまで真剣に経営する気はなかった。文化的に立ち遅れた地を意味する「化外の地」、伝染病がはびこる地を意味する「瘴癘(しょうれい)の地」などと呼んで台湾を恐れ、福建省の支部である「府」を置くのみで支配は限定的だった。
清朝による台湾統治の姿勢をよく示すのが「土牛線」あるいは「土牛溝」と呼ばれる境界線だ。漢人と先住民との衝突が続き、清朝政府は、西側の平地は漢人の縄張りだが東側の山地に漢人は立ち入らないこととし、その境界に溝まで掘った。掘り出した土で造った土塁が牛の背に見えたことから「土牛」の名が付いた。台湾の西半分しか記載されていない当時の奇妙な地図が残っている。