「命の選別」を強いられるアメリカの苦悩
WHO WILL DOCTORS SAVE?
医師に訴訟リスクはないか
大きな不確定要素の1つは、訴訟リスクだ。明確な指針が決められていない場合、患者の治療を拒んだ医師や病院は法的なリスクを背負い込みかねない。「医師の訴訟リスクは小さいという見方が一般的だが、ゼロとは言えない。さまつな問題と片付けるわけにはいかない」と、ハーバード大学法科大学院のグレン・コーエン教授は言う。
人工呼吸器を外すという行為は、法律上の危険をはらんでいる。一般的には、医療資源がない場合に治療を行わなかったとしても、医師は刑事責任を問われない。しかし、患者の同意を得ずに人工呼吸器を外す場合は事情が違う。
「その行為は、形の上では殺人と似ている」と、コーエンは言う。人工呼吸器を外さなくても「患者は死んでいたかもしれないが、それは関係ない。判例によれば、数時間でも患者の寿命を縮めれば、過失致死か殺人に問われる可能性がある」。今のような状況では、こうした行為を理由に検察が医師の罪を問うことはないだろうとコーエンはみるが、検察官次第という面もある。
では、民事裁判はどうか。医師が医療過誤を理由に訴えられる可能性はあるが、陪審員が損害賠償請求を認める可能性は小さいと、コーエンは言う(医師が人工呼吸器を外そうとしたとき、家族が納得できなければ、裁判所に差し止め命令を求めるという選択肢もある)。
アメリカの連邦法は、医療従事者にある程度の免責を認めているが、十分とは言えない。州レベルでも、適切な制度を設けているのはメリーランド州だけだ。各州の州議会は目下の危機の間、医師を一時的に免責する立法を行うべきだと、コーエンは主張する。
そうした州法が成立するまでは、ピッツバーグ大学のホワイトらが作成したような指針に沿って判断した医師を訴追することはしないと、州の検察当局が文書で確約すべきだと、コーエンは言う。「医師が指針を誠実に遵守しつつ行動した場合は、免責されるべきだ」
ハーバード大学のトゥルオグは今のアメリカの状況を見て、10年の大地震後のハイチで目の当たりにした光景を思い出す。病院には重い肺炎の子供たちがいたが、人工呼吸器が足りず、医師たちは難しい選択を突き付けられた。「ハイチの人たちにとってはそれが日常の一部だった」と、トゥルオグは言う。「やむを得ないことに思えた。それ以上はどうすることもできないと、私たちは感じていた」
世界有数の貧しい国であるハイチでは、命の選別が日常的に行われていたのだ。アメリカ人にとっては受け入れ難い現実だろう。だが、そうした選択を迫られる日は刻一刻と迫っている。
<本誌2020年4月28日号「特集:日本に迫る医療崩壊」より転載>