【特別寄稿】作家・閻連科:この厄災の経験を「記憶する人」であれ
NEVER FORGET
考えてみてほしい。もしも今日の武漢に、方方(ファンファン)という作家(武漢在住の著名作家で、日記をネットで発表し続けている)の存在と記録がなかったら、方方が文字で彼女個人の記憶と感じたことを残さなかったら、何千人もの方方のような人がいなかったら、携帯電話を通じてわれわれに生と死を泣きわめく声と助けを求める声を伝えてこなかったら、われわれに何が聞こえるでしょうか。何が見えるでしょうか?
巨大な時代の奔流の中で、個人の記憶は往々にして時代の余計な泡沫、波しぶき、喧騒と見なされ、時代に除去され、廃棄され、脇へ投げ出されてしまいます。それは声もなく、言葉もなく、存在したこともないかのごとくに扱われる。そしてその結果、水車を回す流水のように時代が過ぎ去ったとき、巨大な記憶喪失がやって来たのです。魂のある肉体はなくなってしまったのです。全てが穏やかに静かになって、地球を梃子(てこ)で動かすことのできるあの小さな小さな本当の支点もなくなってしまう。そして、歴史はよるべき証拠もない伝説、記憶喪失と想像になってしまったのです。
この角度から見れば、記憶力があり、個人が変えられない、消せない記憶を持っているということは、われわれにとっていかに大事なことか。少しだけ本当の話と最低限の真実と証拠を話すということが。とりわけこのライティングゼミの諸君、われわれの圧倒的多数が運命づけられているのは、生涯、記憶によってものを書き、真実を求め、生きていかなければならない人間であるということなのです。いつか、そのごくわずかな哀れな真実と記憶をわれわれまでなくしてしまったら、この世界に、個人の歴史の真実と真相など果たして存在するのでしょうか。
本当のことを言えば、われわれが個人の記憶力と記憶を持っていたからといって、世界と現実を変えることなどできないかもしれませんが、少なくとも統一された、組み立てられた真実に向き合うとき、心の中でひそひそとささやくことはできます。「そんなはずはない!」と。少なくとも新型肺炎のターニングポイントが本当に現れるとき、巨大な喜びの勝利の銅鑼と太鼓が鳴り響く中で、個人から、家庭から、ぎりぎりのところからの悲しげな叫びと慟哭(どうこく)を聞くことも、記憶することもできるのです。
世界を変えることはできなくても、個人の記憶がわれわれに真実の心を持たせてくれるのです。
現実を変える力にはならないかもしれませんが、個人の記憶は、少なくともでたらめに襲われたとき、われわれの心の中に疑問符を付ける助けになってくれます。ある日再び大躍進、鋼鉄大増産の時代になったとしても、少なくとも砂が鋼鉄にはなり得ないことも、1畝(ムー)で5万キロも(穀物が)生産できないこともわれわれが信じているのは、人類の最も基本的な常識中の常識であり、意識が物質を創造し、空気が穀物を生産する奇跡などないからです。少なくとも、ある日再び10年にも及ぶ惨禍のような革命が起こったとしても、自分で自分の両親を監獄や処刑台に送ったりしないということを、われわれは保証することができます。
警笛を聞き取れる人に
諸君、われわれはみな文系で、おそらく生涯にわたって言葉を頼りに、現実と、記憶と付き合っていく人間なのでしょう。言葉を記憶することにおいて、幾千万もの個人の記憶はさておき、集団の記憶、国家の記憶および民族の記憶は、歴史の上ではいつも、われわれ個人の記憶力と記憶を覆い隠し、変えてしまうものです。今日において、今、新型肺炎がまだまだ記憶として固まっていないこのとき、われわれの周囲では、既に高らかにたたえ、躍起になって祝う銅鑼と太鼓が鳴り響いています。まさにこの点において、諸君に、新型肺炎という災禍を経験した諸君に、この災難を経て、記憶力の優れた人になってほしいのです。記憶力に記憶を生み出させる人に。