最新記事

新型肺炎 何を恐れるべきか

【特別寄稿】作家・閻連科:この厄災の経験を「記憶する人」であれ

NEVER FORGET

2020年4月3日(金)12時20分
閻連科(作家)

magSR200403_3.jpg

マスク姿の北京の警備員 KEVIN FRAYER/GETTY IMAGES

考えてみてほしい。もしも今日の武漢に、方方(ファンファン)という作家(武漢在住の著名作家で、日記をネットで発表し続けている)の存在と記録がなかったら、方方が文字で彼女個人の記憶と感じたことを残さなかったら、何千人もの方方のような人がいなかったら、携帯電話を通じてわれわれに生と死を泣きわめく声と助けを求める声を伝えてこなかったら、われわれに何が聞こえるでしょうか。何が見えるでしょうか?

巨大な時代の奔流の中で、個人の記憶は往々にして時代の余計な泡沫、波しぶき、喧騒と見なされ、時代に除去され、廃棄され、脇へ投げ出されてしまいます。それは声もなく、言葉もなく、存在したこともないかのごとくに扱われる。そしてその結果、水車を回す流水のように時代が過ぎ去ったとき、巨大な記憶喪失がやって来たのです。魂のある肉体はなくなってしまったのです。全てが穏やかに静かになって、地球を梃子(てこ)で動かすことのできるあの小さな小さな本当の支点もなくなってしまう。そして、歴史はよるべき証拠もない伝説、記憶喪失と想像になってしまったのです。

この角度から見れば、記憶力があり、個人が変えられない、消せない記憶を持っているということは、われわれにとっていかに大事なことか。少しだけ本当の話と最低限の真実と証拠を話すということが。とりわけこのライティングゼミの諸君、われわれの圧倒的多数が運命づけられているのは、生涯、記憶によってものを書き、真実を求め、生きていかなければならない人間であるということなのです。いつか、そのごくわずかな哀れな真実と記憶をわれわれまでなくしてしまったら、この世界に、個人の歴史の真実と真相など果たして存在するのでしょうか。

本当のことを言えば、われわれが個人の記憶力と記憶を持っていたからといって、世界と現実を変えることなどできないかもしれませんが、少なくとも統一された、組み立てられた真実に向き合うとき、心の中でひそひそとささやくことはできます。「そんなはずはない!」と。少なくとも新型肺炎のターニングポイントが本当に現れるとき、巨大な喜びの勝利の銅鑼と太鼓が鳴り響く中で、個人から、家庭から、ぎりぎりのところからの悲しげな叫びと慟哭(どうこく)を聞くことも、記憶することもできるのです。

世界を変えることはできなくても、個人の記憶がわれわれに真実の心を持たせてくれるのです。

現実を変える力にはならないかもしれませんが、個人の記憶は、少なくともでたらめに襲われたとき、われわれの心の中に疑問符を付ける助けになってくれます。ある日再び大躍進、鋼鉄大増産の時代になったとしても、少なくとも砂が鋼鉄にはなり得ないことも、1畝(ムー)で5万キロも(穀物が)生産できないこともわれわれが信じているのは、人類の最も基本的な常識中の常識であり、意識が物質を創造し、空気が穀物を生産する奇跡などないからです。少なくとも、ある日再び10年にも及ぶ惨禍のような革命が起こったとしても、自分で自分の両親を監獄や処刑台に送ったりしないということを、われわれは保証することができます。

警笛を聞き取れる人に

諸君、われわれはみな文系で、おそらく生涯にわたって言葉を頼りに、現実と、記憶と付き合っていく人間なのでしょう。言葉を記憶することにおいて、幾千万もの個人の記憶はさておき、集団の記憶、国家の記憶および民族の記憶は、歴史の上ではいつも、われわれ個人の記憶力と記憶を覆い隠し、変えてしまうものです。今日において、今、新型肺炎がまだまだ記憶として固まっていないこのとき、われわれの周囲では、既に高らかにたたえ、躍起になって祝う銅鑼と太鼓が鳴り響いています。まさにこの点において、諸君に、新型肺炎という災禍を経験した諸君に、この災難を経て、記憶力の優れた人になってほしいのです。記憶力に記憶を生み出させる人に。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

ヘッジファンド、銀行株売り 消費財に買い集まる=ゴ

ワールド

訂正-スペインで猛暑による死者1180人、昨年の1

ワールド

米金利1%以下に引き下げるべき、トランプ氏 ほぼ連

ワールド

トランプ氏、通商交渉に前向き姿勢 「 EU当局者が
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:AIの6原則
特集:AIの6原則
2025年7月22日号(7/15発売)

加速度的に普及する人工知能に見えた「限界」。仕事・学習で最適化する6つのルールとは?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「史上最も高価な昼寝」ウィンブルドン屈指の熱戦中にまさかの居眠り...その姿がばっちり撮られた大物セレブとは?
  • 2
    真っ赤に染まった夜空...ロシア軍の「ドローン700機」に襲撃されたキーウ、大爆発の瞬間を捉えた「衝撃映像」
  • 3
    どの学部の卒業生が「最も稼いでいる」のか? 学位別「年収ランキング」を発表
  • 4
    エリザベス女王が「うまくいっていない」と心配して…
  • 5
    「お腹が空いていたんだね...」 野良の子ネコの「首…
  • 6
    【クイズ】次のうち、生物学的に「本当に存在する」…
  • 7
    千葉県の元市長、「年収3倍」等に惹かれ、国政に打っ…
  • 8
    「ベンチプレス信者は損している」...プッシュアップ…
  • 9
    イギリスの鉄道、東京メトロが運営したらどうなる?
  • 10
    日本より危険な中国の不動産バブル崩壊...目先の成長…
  • 1
    「ベンチプレス信者は損している」...プッシュアップを極めれば、筋トレは「ほぼ完成」する
  • 2
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、ネットが感動の渦
  • 3
    「お腹が空いていたんだね...」 野良の子ネコの「首」に予想外のものが...救出劇が話題
  • 4
    日本企業の「夢の電池」技術を中国スパイが流出...AP…
  • 5
    千葉県の元市長、「年収3倍」等に惹かれ、国政に打っ…
  • 6
    どの学部の卒業生が「最も稼いでいる」のか? 学位別…
  • 7
    イギリスの鉄道、東京メトロが運営したらどうなる?
  • 8
    エリザベス女王が「うまくいっていない」と心配して…
  • 9
    完璧な「節約ディズニーランド」...3歳の娘の夢を「…
  • 10
    トランプ関税と財政の無茶ぶりに投資家もうんざり、…
  • 1
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 2
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 3
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事故...「緊迫の救護シーン」を警官が記録
  • 4
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 5
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 6
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 7
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 8
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 9
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 10
    「うちの赤ちゃんは一人じゃない」母親がカメラ越し…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中