レイモン・アロン、フランス国際関係論の源流
アロンからしてみれば、そもそもフランス単独で「偉大さ」を追求できるような状況にはなく、ド・ゴールの言説は甚だしく時代遅れのものであった。地に足の着いた核戦略の必要性を訴え、通常戦力の存在も念頭に置くべきとの考えであった。ソ連とフランスでは国土の大きさが違い、そこに抑止に基づく関係を構築させるのは至難であるとの意見であった。そうした脆弱性を補うために、アロンは「核兵器のヨーロッパ化」ということも唱えた。この点については、フランスにおける核戦略論で際立った活躍を見せたピエール・マリ・ガロアという軍人と考えを共有していた。とはいえ、アロンとガロアはむしろその核戦略をめぐる考えの違いで目立った。
ガロアが、フランスに対するあらゆる攻撃に核戦力で応じた方が、抑止効果を高めることができると考えたのに対し、アロンは核戦力と通常戦力をバランスよく用いることに重点を置く立場から、フランスが受けた攻撃のレベルに則して対応した方が、抑止効果は高まるとの考えであった。論争は徐々に終息に向かい、結局フランスの核戦略は、強硬派の論理に立脚したものになり、アロンの望んだ方向にはいかなかった。
アロンは核戦略をめぐる論争に加わることで、現実政治に影響を及ぼそうとしていた。国際関係論の研究者は、「学究の徒」として生きる傍ら、場合によっては政策の立案と決定に携わる政治エリート集団への助言や提案を求められ、自らもその集団に加わる。「マルチ知識人」アロンもそうした一人であり、第二次世界大戦終焉後の一時期、ド・ゴールを軸に結党されたフランス人民連合に加わったのがその一例である。
だが、現実政治への関与に関して、アロンが特筆に値する足跡を残したとはいえない。国防省に近い、安全保障を研究するためのシンクタンクを創設する際には、実質的な責任者の座をライバルであったアンドレ・ボーフル将軍が射止め、アロンは名誉職に追いやられた。アロンは、ヘンリー・キッシンジャーとも親しく、ジョン・F・ケネディ大統領の周辺に集った知識人とも深い交流があったことから、アメリカにおける政治家と知識人との関係を理想にしていたのであろう。
国際関係論の世界で、アロンは『諸国間の平和と戦争』の著者として、あるいはクラウゼヴィッツに関する研究を残した研究者として歴史にその名を刻印した。核兵器に関する戦略論争に飛び込み、現実政治に反映させることができなかったアロンも、『諸国間の平和と戦争』というフランス国際関係論の金字塔を打ち立てたアロンも、同じアロンである。
マリスが読者に向けて描いたのは、こうした等身大のアロンであり、「マルチ知識人」としての業績と限界を明らかにした点で貴重な研究である。そのマリスも、歴史家でありながら積極的に安全保障の研究に取り組み、「マルチ知識人」の片鱗を見せていた。マリスが冷徹にアロンを分析しながらも、アロンに憧れ、自らの生き様を重ねていたという評価にも頷ける。
だが、そうした「第二のアロン」への道をもはや見ることはできない。というのも、残念ながら二〇一七年、マリスは五〇歳の若さでこの世を去ってしまったからだ。
宮下雄一郎(Yuichiro Miyashita)
1977年生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻後期博士課程単位取得退学、博士(法学)。パリ政治学院大学院歴史学研究所修了、博士(史学)。松山大学法学部准教授などを経て、現職。専門は、国際関係史、フランス外交史。主な著書に、『フランス再興と国際秩序の構想――第二次世界大戦期の政治と外交』(勁草書房、サントリー学芸賞、渋沢・クローデル賞奨励賞、猪木正道賞奨励賞)、"Jean Monnet et les conflits sino-japonais des années 1930," in Gérard Bossuat (sous la di rect ion de) , Jean Monnet et l'économie( Peter Lang, 2018)など。
『アステイオン90』
特集「国家の再定義――立憲制130年」
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
CCCメディアハウス