レイモン・アロン、フランス国際関係論の源流
本稿ではアロンだけではなく、著者のマリスにも注目したい。歴史家のマリスは、国防省の研究機関に籍を置いていた。さらに、企業での勤務経験もあった。ようするに、歴史学を基盤としつつも、安全保障問題にも精通していたのであり、その生き様は、大学で一生を過ごしたのではなく、国際情勢を大局的な観点から論じるために、一定の期間、あえてジャーナリストとして過ごしたアロンの生き様と重なるところがある。マリスもアロンと同様、多様な経験を積みながら学問に臨んだわけであり、本書をとおして、そうした経験値に研究内容を豊富にさせる可能性があるのではないかと問うこともできるであろう。
マリスの研究は、歴史上の「出来事」に直面した際のアロンの分析を内在的にとらえており、一人の知識人をとおして二〇世紀の諸問題を照射することに成功している。
そもそもアロンが青年として学んだ一九二〇年代のフランスでは国際関係論という体系化された学問はなく、同時代的な国際情勢に刺激を受け、「出来事」を理解しようとするなかで、国際関係論の研究者として成長していったのである。一九六二年に『諸国間の平和と戦争』という本を出版し、理論に関する世界的な金字塔を打ち立てたアロンであるが、実際には理論的研究ではなく、国際情勢と向き合うなかで国際関係論の研究者になっていくわけで、これは一九三〇年から晩年に至るまで変わることはなかった。
戦間期から第二次世界大戦終焉後の時期にかけて、フランスの国際的地位の動揺を目の当たりにしたアロンの国際関係思想の底流には一貫したパワー・ポリティクスの視点があった。ようするに、アロンは「力の体系」に主軸を置いて同時代的な国際情勢を分析したのであり、リアリズム的な視点から世界を分析したのである。マックス・ウェーバーをフランスで本格的に紹介した草分け的な知識人ならではの視点である。
とはいえ、初めからそうした視点で世の中をみていたのかというとそうではない。この点を鮮やかに描き出したのがマリスの本の魅力の一つだ。アロンを理論のどのカテゴリーに分類するかについては論争の対象になっているものの、古典的リアリストに含めるのが一般的であろう。しかし、アロンもまた二〇世紀を席捲したイデオロギーの潮流に翻弄され、「転向」を経験したのである。
どういうことかというと、一九〇五年生まれのアロンは、第一次世界大戦の時期を少年として過ごし、当時ヨーロッパで普及した社会主義に触発されたのである。さらに、社会主義以上に触発されたのが平和主義の思想である。これはアロンが直接教えを受けた哲学者のアランの影響が大きい。師であるアランと同じく、アロンの平和主義は軍事的な事象を拒絶する平和主義であり、軍事を論じることすら嫌う平和主義であった。戦後のアロンはカール・フォン・クラウゼヴィッツを縦横無尽に論じ、大著を残すことになるが、一九二〇年代の青年アロンにはその片鱗すら見えなかった。