恩師の評伝 服部龍二『高坂正堯』を読む
高坂が、大学院生の研究指導よりも重視したのは、おそらく、ゼミ生を含む学部学生の教育だっただろう。それは大学教師として当然でもあるが、とくに高坂の場合には、社会における「実務家」の役割が大事であるという考えが強かったように思う。大学を巣立って実務家つまりビジネスマンや公務員、あるいは教師や法曹家となる学生たちに、政治や社会の重要課題についてどう考えるべきか、どう行動すべきかを理解させる。これこそ、高坂の本来の「使命」だった。
あるとき、高坂が次のように語ったのを記憶している。ボクの話を一番よく理解してくれるのは西陣のオッチャンたちやな、と。実社会で実事に従事しているからこそ、政治や社会の問題を的確に理解し、成熟した判断を下せる、という意味であったように思う。それは、福沢諭吉の言う「実学」に通じていた。
政治・社会との関わりについては、政府のブレーンとしての役割を果たしたことが特筆されよう。服部の評伝でも、この部分が白眉と言ってよい。『佐藤栄作日記』によって、高坂が佐藤政権のブレーンであったことはこれまでも知られていたが、服部は佐藤の秘書官・楠田実の資料を駆使して、高坂の役割の実体を明らかにしている。興味深いのは、沖縄復帰に関し、あくまでヴィジョンや政策の助言提供に徹した高坂と、佐藤の密使として行動し、アメリカ側との「密約」にも関わった若泉敬との対比である。ブレーンにも様々のタイプと役割があった。
安全保障に関する諮問委員会で、高坂は大平正芳内閣と中曽根康弘内閣のときに主導的な役割を果たした。だが、自由な議論を許容した大平と、自分が求める結論に導くため介入を厭わない中曽根との間には、ブレーンの使い方に大きな違いがあった。中曽根の介入と圧力に、高坂は苦悩したという。このあたりは、当時の関係者のオーラル・ヒストリーや資料に基づいて実証的な研究を重ねてきた服部ならではの描写と分析が存分に示されている。
それにしても、高坂は政権のブレーンとして働くことを、どう考えていたのだろうか。「御用学者」という批判は、「タレント教授」という中傷と同じく、歯牙にもかけなかっただろう。国際政治を研究対象とする者にとって、政府の対外政策に何らかの影響を及ぼし得る機会を与えられることは、それなりに魅力的だっただろうし、研究者としての社会的使命を果たすことにもつながると考えられただろう。
しかし、それが魅力的であるがゆえに、難しいのは、権力との距離の取り方である。はた目で見る限り、彼はうまく距離をとっているように見えた。過剰にコミットせず(権力の虜にならず)、適度の距離を保つ。どうしてそれができたのか、聞いてみたかった。聞いても答えてくれなかったかもしれない。答えようがなかったかもしれない。それは勘(センス)であって、説明できないものだろうから。高坂には、その勘があった。あるいは、彼の学問上の師の一人である猪木正道の権力との接し方を見て、そこから学んだのかもしれない。