Huawei総裁はなぜ100人リストから排除されたのか?
ではなぜ1982年から1987年の間だけ、彼はいかなる功績もないのに、党大会の代表(約3000人のうちの一人)になどなったのか、気になるところだ。
最初の妻との関係から政治権力嫌いに
それは彼の最初の妻、孟軍(孟晩舟の母親)の父親・孟東波が四川省の副省長になったからだ。
孟軍と結婚したのは文革の時で、孟軍の父親も職を失った素浪人。そのころ二人の仲は良かった。しかし文革が終わり、孟軍の父親が四川省の役人になり、やがて副省長にまで昇進すると事情が違ってきた。
1982年、孟軍は孟東波の力で深圳の南海石油集団の幹部に就任した。1983年に任正非は中国人民解放軍の建築工程兵を解雇されるのだが、就職先として妻の南海石油集団の下請けサービス会社に回される。それでも職があったのは妻の父親・孟東波のお蔭だ。南海石油集団の幹部にはしてもらえなかったが、その代わりに党大会の地方代表に推薦してあげたのだからいいだろう、というのが孟家の姿勢だった。
任正非の政治権力への抵抗は、ここから始まったと言っていい。
政治権力の力で動かされる嫌悪感は、妻の命令の下で働かされる屈辱から来ていると考えていいだろう。政治権力から自分の人生を切り離すために、任正非は南海石油集団のサービス会社を辞め、孟軍とも離婚してしまう。
それが唯一、任正非が政治と関わった「1982年から1987年」なのである。党大会の代表は5年間続くので、1987年までは辞められない。その意味で「1987年」という年自体が重要だ。
これ以降は、任正非は一切、政治から遠ざかった。二度と、いかなる肩書ももらおうとしなかった。
朱鎔基の経費支援を断った任正非
まさにその「1987年」に、任正非は仲間数名を集めて、わずか2万元(日本円で約30万円前後)でHuaweiを創設した。90年代初期、新しく電話交換機を開発しようとして銀行に融資を頼んだが、どこも相手にしてくれなかった。邪魔をしていたのは離婚した孟軍の父親と国有企業ZTE(中興通訊)だと言われている。
仕方なく大企業に資金を借りたところ、20%から30%の利子が付き、たちまち経営不振に陥ってしまった。そこで従業員たちに「誰でもいいから1千万人民元、どこかから借りてきてくれれば、1年間働かなくても給料を支払う」という懇願をしたほどである。事実、従業員たちは様々なルートで融資を集めてきてくれて、それを会社側が借り入れ、「社内融資」のような形を取っていた。このとき任正非は、会社の株を「1株1元」で従業員に持たせ、「もし失敗したら飛び降り自殺をする」という覚悟でビジネスを展開し始めた。