普通の大国として振舞うトランプ外交誕生の文脈──アメリカン・ナショナリズムの反撃(2)
このような傾向の思想的表現は、フランシス・フクヤマの「歴史の終焉論」だったし、具体的な事例としては、中国やロシアを地政学的脅威として語るよりかは、いずれは「こちら側」にくる国として語られたことに典型的に現れていた(14)。中露両国のWTO加盟もまさにその文脈ですすめられた。一九九〇年代に賑わった人道的介入をめぐる議論も、この「convergence」を加速させるため、もしくはそれを妨げるものを除去するとの態度表明でもあった。バーツラフ・ハヴェル・チェコ大統領が、コソボへのNATO軍の介入を評して、人類史上初の「倫理的な戦争」であると述べたが、それはウィルソン主義こそが世界史の主流になったということとほぼ同義だった。しかし、コソボ戦争が、ウィルソン主義の頂点だったとすると、その凋落のはじまりは間もなくイラク戦争というかたちで訪れた。
アメリカ・ファースト外交誕生の文脈
九・一一テロ攻撃は、世界はリベラル・デモクラシーの方に向かって収斂していくという感覚を一時的に後退させた。しかし、ワールド・トレード・センター崩落のシーンを前に、歴史は終焉などしていないとの声が高まる一方で、オーバードライブに入ったウィルソン主義が「大中東圏(グレーター・ミドル・イースト)」に民主化の波を外科手術的に引き起こそうとした。それは、アメリカの力で無理やり歴史をねじ伏せて、終焉させてしまおうとする介入だった。当時、イラクへの米軍介入後の見通しとして、「ジェファーソニアン・デモクラシー」の可能性が介入支持派の間で真剣に語られていると伝えられたが、まさに「ウィルソンの亡霊」がブッシュのホワイトハウスを彷徨っていたかのようだった(15)。
イラク戦争の挫折は、アメリカ国内における空気を一変させ、アメリカの「例外性」に懐疑的なオバマ大統領をホワイトハウスに送り込んだ。そのオバマは、世界をアメリカに似せて作り変えるのではなく、アメリカを世界に適応させる、そうした問題意識で世界と向き合った。「核兵器なき世界」を志向し、多国間主義と対話を重視したオバマ外交をウィルソン主義の文脈で語ることは難しくない。しかし、オバマ外交は、その本質においては、ウィルソン主義と相容れない傾向を内包していた。ウィルソン主義は、アメリカの「特殊な役割」に依拠している。しかし、オバマは、アメリカの例外性について、諸外国がそれぞれ固有の存在であるという限りにおいてアメリカも固有であるに過ぎないと語ったことがある(16)。つまり、使命的民主主義(ミッショナリー・デモクラシー)を放棄したアメリカが、そもそもウィルソン主義の担い手たりうるのか、オバマ外交はそうした問題を提起していたといえよう。たしかにオバマはウィルソン主義が目指した理念そのものは放棄しなかったものの、その実現の過程でアメリカの果たすべき役割については、抑制的な態度をとり、それを国際社会との共同性を模索していく中で見出し、実現していくべきものとした。