憤るアメリカ白人とその政治化
クレイマーのヒアリングの対象であるウィスコンシンの「非都市部(rural)」の有権者らは、税金の殆どが「都市(urban)」に配分され、自分らには回って来ない、都市に所在する政府部門は肥大化し、公務員らは甘い汁を吸っていると信じている。しかも「都市」の人たちが自分たちを「田舎者」であると見下している、政治家も都市ばかりに目を向けて、自分らのことには見向きもしない、と憤る。彼らにとって、「都市」とは、州立大学や地元メディアにより構成されるリベラル・エリートとホワイトカラーの公務員を意味する。怒りの裏には、行政サービスの財源の分権化が州内の再配分機能を減少させ、世帯数の少ない農村地域では行政サービスの量と質の維持が難しくなっている中で、「都市部」は良い思いをしている、という認識がある。州立大学であるにもかかわらず、マディソン校は名門である故に入学基準が厳しく、自分の子供や孫が入学できないことの恨み、自分らよりも雇用が安定し、福利厚生に恵まれた公務員への怒りがある。クレイマーの本にはないが、背景として重要なのは、民間と公務員の労働条件の差である。労働運動が盛んなころのウィスコンシンでは、民間労働組合員であれば、大卒でなくとも、社会保険年金プラス給付型企業年金と退職者医療保険が約束されていたが、企業の負担を下げる為に企業年金は拠出型にかわり、昔ながらの給付型企業年金を貰えるのは公的部門の労働者のみである。ウィスコンシンにおける公務員への怒りは、民間部門の衰退と紙一重なのである。こうして、我々(非都市=働き者のアメリカ人)対奴ら(都市=鼻持ちならないリベラル・エリート・怠け者の公務員)という構図が出来上がっていったのである。実際は公的部門は肥大化しているどころか縮小しており、共和党を支持すると自分たちの生活はかえって苦しくなるのであるが、反政府主義的、反職業政治家的なティーパーティー運動を支持することは、諸悪の根源であるリベラル派と公務員をやりこめる正しい戦略だと考えているのである。これがまさに「憤怒の政治」の中身である。
ホックシールドのルイジアナでのフィールドワークの記述にも、政治家不信、政府規制への反対、リベラル派への反感が登場するが、その内容はウィスコンシンとはまた異なる。ホックシールドは、環境保全や健康被害に無頓着な石油プラントや天然ガス採掘会社から実害を受けている住民らが、それでも「雇用を増やす為に」と、さらなる環境規制緩和や企業減税を支持する様子を記述している。その実害たるや、家族全員が癌に罹患し、家畜が川の水を飲んで死亡し、規制緩和で採掘が危険な地区でのシェールガス採掘が行われ、集落全体が陥没して自分の家に住めなくなるなど、とても先進国とは思えない状況になっているにかかわらず、だ。共和党が優勢な州であるので、政府サービスは大幅に削減されており、引越し資金もない人たちには、地元での雇用だけが頼みの綱なのはわかるが、環境汚染にその生業を脅かされる漁業関係者らでさえ、環境保護運動には関心がない。また、ペンテコステ派の敬虔なクリスチャンが多いルイジアナでは、汚染も地球温暖化もすべて神の御心次第という態度の人がいる様子も描かれている。ホックシールドが指摘するように、米国には、キリストの再来は近く、その時に、信じる者だけが救われ、他は全て焼き尽くされると確信する信者が多いところでは、環境保護よりも中絶の反対と自分の魂の救済の方が大切だと考える人たちも多いのである。