トランプ、同性婚、「価値観」の有無......阿川尚之氏に聞く米国憲法の歴史と憲法改正(後篇)
アメリカは進歩的な国なのか?
――日本でも「ダイバーシティー」という言葉が市民権を得る中で、アメリカでは結婚を男女の間に限るとした州法を違憲とする最高裁判断が示され、歴史的判決だと大きくと報じられました。アメリカはそういった面でかなり進歩的だというイメージを持っている日本人は多いと思います。
阿川:LGBTなどの議論が憲法問題として取り上げられるのを見ていると、いかにもアメリカが進歩的だという感じがするでしょう。最近の最高裁判決やオバマ政権の政策もその方向にありますが、数は減りつつあるものの、まだまだ保守的な価値観を持つ人が大勢いて、抵抗も根強くあります。同性婚が認められたことについて「アメリカの終わりだ」と言った人もいるくらいですから、進歩的な方向にどこまで進むかは、まだわかりません。
かつてレーガン大統領が当選した背景には、ヒッピーやフリーセックスなど行き過ぎた自由に対する保守派の反感があり、進歩主義を信奉する民主党への逆風が吹いたという事実がありました。民主党支持者なのに共和党のレーガンに投票した人も多かったんですよね。
確かにアメリカ社会で、同性愛やLGBTに対する許容度が高くなったのは事実ですが、反対する人も多く、現在でも異なる考え方同士が常に押したり引いたりしている。
それに、「憲法上の権利とは何か」という点についても、議論が続いています。
合衆国憲法は、もちろん当初から個人の権利について考えていました。ただしそれはイギリス植民地時代の経験に基づいて、「これだけは国王や中央政府といえども介入できない」という権利だけを言っていた。それが20世紀後半になると、憲法を広く解釈すれば、妊娠中絶の権利、同性愛の権利、それから嫡出子でない人の権利もある...という具合に、次第に憲法で認められるべき権利の範囲が、拡大されています。
憲法に書いていないことが本当に憲法上の権利として認められるためには、それがアメリカの伝統の一部になる必要がある、という主張があります。ある有名な判事の言葉を借りれば、「伝統や歴史に根を深く下ろしていない限り、憲法上の権利とは認めえない。選挙で選ばれていない判事が、安易に新しい権利を創りだしてはいけない」という考え方です。憲法にはLGBTの権利を守るなんて、どこにも書いてないわけですから、そのような権利をどうして憲法上の権利と認めうるのか。
LGBTの人たちもできるだけ「平等」に扱おうという考え自体は、悪いことではないと思います。しかしそれが社会の伝統として定着するには、時間がかかります。定着する前に、議会での十分な討論と議決なしに、最高裁が憲法の拡大解釈によって憲法上の権利だと決めてしまうことには、正統性の観点から疑問が残ります。その観点から、最高裁の判断は時期尚早ではないか、という意見もあります。LGBTや同性愛者の権利を主張する際には、そうした視点も理解してほしいと思います。
やや奇妙だと思うのは、日本の護憲派は憲法の解釈変更を嫌いますが、LGBTのような問題に関しては自由な解釈を許容する傾向があるんですよね。面白いことに、アメリカでは保守派の方が護憲で、逆に進歩派は憲法の解釈をどんどん変えていって、新しい価値観を先取りしていこうとするわけです。「改正なんか古い、これからは憲法を解釈で変えていこう」という、かなり極端な意見さえあります。