テロリストの一弾が歴史を変えた――第一次世界大戦史(1)
<ある点において、2016年夏の英EU離脱騒動は、1914年夏の第一次世界大戦開戦に似ている。1914年6月28日、「サラエボ事件」で暗殺されることになるフランツ・フェルディナント大公夫妻は、なぜ危険なサラエボにわざわざ赴いていたのか。歴史をひも解くシリーズ第1回>
(上図:「我々の犯罪者名簿より」〔ドイツ〕。「暗殺犯」プリンツィプ。作者グルブランソン〔ノルウェー生まれ〕は、当時のドイツを代表する諷刺画家。『ジンプリツィシムス』誌で活躍。同誌はイギリスの『パンチ』と並び称されるドイツの諷刺雑誌。)――『第一次世界大戦史――諷刺画とともに見る指導者たち』より
まさか、こんな結果になるとは思っていなかった――。まるで登場する指導者全員が、そう言いたいかのようだ。
よもや負けるとは思わず、EU(欧州連合)離脱の是非を問う国民投票の実施を約束したデービッド・キャメロン英首相。離脱派を率いて勝利しながら、キャメロンの後継を決める党首選不出馬を決め、リーダーシップを放棄したボリス・ジョンソン前ロンドン市長。離脱派の急先鋒でありながら、国民投票後に「自分の生活を取り戻したい」と言い放った英独立党(UKIP)のナイジェル・ファラージ党首......。
おそらく後世の歴史家から見れば、2016年夏の英EU離脱騒動は、指導者たちの思惑が複雑に絡み合い、意図せざる結果を生んだ好例になるのではないか。あの1914年の夏と同じように。
細谷雄一・慶應義塾大学法学部教授もコラム「イギリスは第2のオーストリアになるのか」でそう指摘しているが、第一次世界大戦(1914~1918)の歴史をひも解くと、人類最初のあの世界大戦も思惑と偶然が絡み合った意図せざる産物であったことがよくわかる。
【参考記事】年表:イギリスがEUを離脱するまで(1952-2016)
「一九一四年夏、ヨーロッパは、各国の一握りの為政者の決定と、それらの相互作用の積み重ねから戦争にいたる」と、飯倉章・城西国際大学国際人文学部教授は『第一次世界大戦史――諷刺画とともに見る指導者たち』(中公新書)の「まえがき」に記す。「大戦期の個性豊かな政治家、君主、軍人たちの多くは、必ずしも戦い――少なくともヨーロッパ全土での戦争――を望んではいなかったが、憶測や利害、希望的観測に振り回されて、この大戦争の渦の中に巻き込まれていった」
100点近くの諷刺画を織り交ぜ、その戦いの軌跡をたどった本書は、登場する指導者たちの選択と行動に着目し、さらには絵を挿入することで、当時の様子や戦争の展開を生き生きと描き出すことに成功している。通史でありながら、歴史のダイナミズムを感じさせる一冊だ。
ここでは、「序章 七月危機から大戦勃発まで」の前半を抜粋し、3回に分けて掲載する。以下、時は1914年6月28日、舞台はボスニア・ヘルツェゴビナのサライェヴォ(サラエボ)。第一次世界大戦の発端となった有名な「サラエボ事件」だが、暗殺されることになるフランツ・フェルディナント大公夫妻はなぜその時、危険なサライェヴォにわざわざ赴いていたのだろうか。
『第一次世界大戦史――諷刺画とともに見る指導者たち』
飯倉 章 著
中公新書
愛ゆえのサライェヴォ事件
すばらしく晴れ上がった夏の日曜日だった。一九一四年六月二八日、オーストリアのボスニア・ヘルツェゴビナの州都サライェヴォをオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公と妻ゾフィーは訪れる。そして、待ち受けていたセルビア人民族主義者の凶弾に倒れた。
運命のその日は、夫妻の結婚記念日である。それは、一四年前に二人の結婚がハプスブルク家にしぶしぶ認められた日でもあった。大公がゾフィー・ホテクと恋に落ちたのは、彼女が二七歳の時といわれる。
二人の恋がスキャンダルとなったのは、一八九九年夏である。ゾフィーは、ハプスブルク家の大公妃の一人に仕える女官にすぎなかった。女官と言っても、れっきとしたチェコの伯爵家の令嬢であったが、ハプスブルク家の皇位継承者の妻としてふさわしい相手ではない。フランツ・フェルディナントは、彼女との結婚と皇位の両方を望み、家柄を重んじる伯父のオーストリア=ハンガリー皇帝フランツ・ヨーゼフ一世と対立する。