欧州ホームグロウンテロの背景(1) 現代イスラム政治研究者ジル・ケペルに聞く
「ソ連がアフガンから撤退し、さらに一九九一年にソ連が崩壊した時、ムジャーヒディーンたちは自分たちの戦いこそがソ連を倒したと思い込みました。米国やサウジから支援されたことなどすっかり忘れたのです。その後彼らは、新たな戦場を求めてエジプトやアルジェリア、ボスニア、チェチェンといった場所に転進し、地元の親欧米政権や元親ソ政権を相手に武装闘争を繰り広げました。自分たちの行為がイスラム教徒一般の支持を得られると信じてのことですが、大衆は付いて来ませんでした」
ケペルによると、エジプトの「イスラム集団」が九七年にルクソールで起こした観光客襲撃事件などを最後に、第一世代のジハードは終わりを遂げた。
第一世代の失敗を教訓として方針を見直したのが、第二世代ジハードの中心となった国際テロ組織「アル・カーイダ」である。指導者はオサーマ・ビン・ラーディンだが、その副官として理論を固めたのがエジプト人のアイマン・ザワーヒリー(一九五一 ‐ )だった。
第一世代が領土の奪還を目的とし、目前の敵と戦ったのに対し、第二世代は遠くの敵、すなわち米国を標的に定めた。まず米国を攻撃することで、最終的に中東各地の親米政権を倒せると考えた。
「それは、ビリヤードと同じ発想です。一つの玉を突いて、他の玉を連鎖させる。驚くべきスペクタクルを演出して米国を突くことによって、その弱さを世界に知らしめ、各国の大衆をそれぞれの政府への攻撃に駆り立てようとしたのです」
構想を実現させるには、自らの命を差し出す自爆テロリスト、彼らが言うところの「殉教者」を必要とする。自爆はもともと、殉教を信奉するイスラム教シーア派に息づいた攻撃手法で、アル・カーイダを構成するスンニ派には見られない発想だった。一九九三年にスンニ派で初めてこの手法を取り入れたのは、パレスチナ・ガザのイスラム組織「ハマース」である。ケペルによると、ザワーヒリーはシーア派やハマースのお株を奪い、「殉教」に基づく壮大なストーリーを描いた。自爆攻撃がイスラム世界の意識を喚起し、欧米を崩壊させ、世界を征服する、というのである。
ただ、構想を実現させるために、アル・カーイダは情報機関に似た強固なピラミッド型組織を構築せざるを得なかった。これが逆に命取りとなったと、ケペルは考える。
「アル・カーイダの内部構造は、米中央情報局(CIA)やソ連国家保安委員会(KGB)と、基本的に同じです。トップのオサーマ・ビン・ラーディンが指令を発し、テロ実行者を現地に派遣する。米同時多発テロにあたっては、実行者が現地まで行くための航空券も、彼らが米国で入学した飛行機操縦学校の授業料も、組織が工面した。この手法は、全般的にお金がかかりすぎます。組織が大きいので、スパイにも潜入されやすい。第二世代ジハードは、確かに大きなインパクトを与えはしたものの、イスラム教徒の大衆を動員できないまま終わったのです」
【参考記事】アルカイダからISに「鞍替え」する世界のテロ組織
※第2回:欧州ホームグロウンテロの背景(2)
*本稿は二〇一五年一〇月二〇日に朝日新聞に掲載されたインタビューを元に大幅に加筆している。
[インタビュイー]
ジル・ケペル Gilles Kepel
1955年生まれ。パリ政治学院卒業。フランスの政治学者、専門はイスラム・アラブ世界。1994~96年米コロンビア大学などで客員教授。パリ政治学院教授としてイスラム・アラブ世界研究を率いる。著書に『イスラムの郊外――フランスにおける一宗教の誕生』(1987年)、『ジハード』(2000年)、『中東戦記――ポスト9.11時代への政治的ガイド』(2002年)、『テロと殉教』(2008年)など多数。
[執筆者]
国末憲人(朝日新聞論説委員) Norito Kunisue
1963年岡山県生まれ。85年大阪大学卒業。87年パリ第2大学新聞研究所を中退し朝日新聞社に入社。パリ支局員、パリ支局長、GLOBE副編集長を経て論説委員(国際社説担当)、青山学院大学仏文科非常勤講師。著書に『自爆テロリストの正体』『サルコジ』『ミシュラン 三つ星と世界戦略』(いずれも新潮社)、『ポピュリズムに蝕まれるフランス』『イラク戦争の深淵』『巨大「実験国家」EUは生き残れるのか?』(いずれも草思社)、『ユネスコ「無形文化遺産」』(平凡社)など。
『アステイオン84』
特集「帝国の崩壊と呪縛」
公益財団法人サントリー文化財団
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CCCメディアハウス