欧州ホームグロウンテロの背景(2) 現代イスラム政治研究者ジル・ケペルに聞く
筆者撮影(「アステイオン」84号より)
論壇誌「アステイオン」84号(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス、5月19日発行)は、「帝国の崩壊と呪縛」特集。同特集から、朝日新聞論説委員である国末憲人氏による現代イスラム政治研究者ジル・ケペルのインタビュー「欧州ホームグロウンテロの背景」を4回に分けて転載する。
6月12日に米フロリダ州オーランドで悲惨なテロが起こったばかりだが、このところ注目を集めていたのはむしろ欧州で相次ぐテロだった。イスラム過激派による「ジハード」を3つの世代に分け、その思想や手法の違いを分析するケペル教授は、現状をどう見ているのか。
(写真:パリの風刺週刊紙『シャルリー・エブド』襲撃事件の犠牲者を悼む花束。編集部は正面左手奥)
※第1回:欧州ホームグロウンテロの背景(1)
思想家スーリーの軌跡
第二世代が第一世代からの反省に基づいて戦略を構築したように、第三世代も第二世代の失敗に学んだ。こうして、第三世代ジハードの理論を打ち立てたのが、シリア出身の技師で政治思想家のアブー・ムスアブ・スーリー(一九五八-?)である。スーリーは「シリア人」を意味する戦士名で、本名をムスタファー・スィットマルヤム・ナッサールという。
写真からうかがう限り、彼は赤毛で童顔、親しみを持たれそうな優男だ。前世代のアッザームやザワーヒリーといった強面と違い、どこかインテリ然とした風貌で、AP通信から「アイリッシュパブの店長と言われても通用しそうだ」とからかわれたこともある。博覧強記、フランス語とスペイン語に堪能で、過激派仲間からは「西洋かぶれ」と批判もされた。サラリーマン然とした外見とは裏腹に、内面にはかなり凶暴な性格を秘めており、大量破壊兵器テロの必要性を主張し、実際にその可能性を模索したこともある。
【参考記事】テロを呼びかけるイスラームのニセ宗教権威
シリアの古都アレッポに生まれ、地元の大学で機械工学を学ぶ一方で一九八〇年からムスリム同胞団系の反政府運動にかかわり、ヨルダンやイラクなどで軍事訓練を受けた。しかし、運動は八二年、政府軍がシリア西部ハマーで実施した作戦によって、数万人規模といわれる犠牲者を出して鎮圧される。この事件は、直接かかわったわけではないスーリーの精神にも大きな影を落とすことになった。
シリアを離れたスーリーは、イラクやサウジアラビアなどを経て、八三年から八五年にかけてフランスに滞在した。以後、九〇年代半ばまでの約十年間をマドリードとグラナダで過ごし、この間の八〇年代後半、マドリードの語学学校で知り合ったスペイン女性と結婚して市民権を得た。
一方で、八七年以降はアフガニスタンに何度も渡航してアッザームやビン・ラーディンの知遇を得た。ビン・ラーディンの広報役を担い、欧米メディアからのアプローチを仲介したこともある。米CNN記者ピーター・アーネットが九七年に実現させたビン・ラーディンへのインタビューを取り持ったのはスーリーだった。もっとも、スーリーとビン・ラーディンとの関係はかなり緊張をはらんだものだったといわれる。スーリーが敬愛したのはタリバーンの指導者オマル師で、ビン・ラーディンについては「独裁者」「ファラオ」(エジプトの王)などと呼んで嫌悪感を示すことがあった。九・一一テロにも当初批判的だった。
スペイン旅券を持つ彼は各地を移動し、アルジェリアの「武装イスラム集団」、ロンドンの過激派イスラム教指導者、二〇〇四年にマドリードで起きた列車連続爆破テロの容疑者グループとも親交を結んだ。